要約
本稿「夢幻空花」は、著者〈私〉が夭折した幼なじみの思想家・闇尾超(やみおちょう)の遺稿ノートを受け取り、その断片的思索に応答しながら綴ったフィクションと評論が混在する散文集である。全体は「序」と十四の章(目次参照)から成り、物語的枠組みの中で以下の主題が往還する。
1. 序 ―― 闇尾超という人物
- 著者は10年以上の思索の末、埴谷雄高の《虚体》概念を越える存在論を模索する。
- その鍵としてオイラーの等式
と虚数の虚数乗に着目、「虚体をも呑み込む新しい存在=《杳体》」を構想。 - 杳体を語る中心人物が黙狂(失語症的沈黙)の思想家・闇尾超。彼は自己嫌悪と宇宙転覆願望に取り憑かれ精神を病み、既に病没している。
2. 此の世界の中で
- 蒼穹を見上げる著者の描写を導入に、「誤謬(まちがい)」こそ自由をもたらすという感覚を提示。
- 重力・時間・カルマン渦など自然科学的メタファーで〈仮象〉と〈現実〉の齟齬を語り、世界の残酷さと魅力を対比する。
3. 闇尾超からの贈り物
- 闇尾超の弟から届いた大学ノート数冊が物語の核。
- ノートには闇尾超の自己弾劾的独白が記され、著者はその暴力的な言語の圧力に射抜かれる。
4. 摂動する私
- ハイゼンベルクの不確定性原理を自己内面に適用し、「内部の〈異形の吾〉は捉えられない」と主張。
- 分裂する自己と恍惚的逸脱を音楽・夢・量子論のイメージで描く。
5. オイラーの等式に吾を見よ
- 数学的合理性に依存する危うさも自覚しつつ、「不合理から出発する必要」も指摘。
6. 自同律の不快の妙
- 埴谷の「自同律の不快」を継承しつつ、闇尾超はそれを「自同律の憤怒」へエスカレート。
- 時空間恐怖症的な存在不適合が語られる。
7. 夢=特異点説
- 夢では因果律が破綻し、主体が分裂する。その構造はブラックホール中心の「特異点」に類似すると仮定。
- 夢が見られるという事実自体が特異点の存在を暗示する、という大胆な命題を提示。
8. 透明な存在
- 現実の猟奇事件を引き合いに出し、「透明さ」や「光=正義」を安易に信じる姿勢を批判。
- 闇の中で露わになるリビドーと暴力性を赤裸々に描く。
9. Cogito, sic Im ‘sollicitus. Et superabit.
- デカルトの《我思う、故に我あり》を否定し、《我思う、故に我は不安となり、そして我を超える》という逆説的コギトを提唱。
- 思考は堂々巡りの果てに飛躍し、主体を超克するという経験が語られる。
10. 光と闇/希望と誤謬
- 「光に条件反射的に希望を見出すのは誤謬。真の希望は闇に遍在する」とする〈趨暗性〉の宣言。
- 闇=虚数世界に潜む実在こそが触知すべき対象。
11. 私は捕まらない
- 再び不確定性原理を召喚し、「私」を静止・確定する試みは必ず失敗する、と主張。
12. 地獄を復活せよ
- 倫理的束縛としての「救済なき永劫地獄」を要請。快楽主義と刹那主義へのカウンターとして地獄の再生を訴える。
13. 実念論私論
- 「念(思考・意志)が存在に先立つ」という独自の〈実念論〉を提示。
- 死者の念がリレーされ、著者の五蘊場でカルマン渦を起こすという神秘体験が語られる。
14. 闇の世界を握り潰せし(詩)
- 闇尾超の遺した詩で幕を閉じる。闇の世界を握り潰す行為が新たな宇宙開闢を誘発するという神話的イメージが提示され、闇尾超の“宇宙転覆”の野望を象徴的に示す。
全体的特徴
- 物語(闇尾超の生涯と遺稿)・思想断片・数学/物理学メタファー・詩が混交。
- キーワード:虚体/杳体・誤謬・闇・不確定性・特異点・念・永劫・自己憎悪・宇宙転覆。
- 近代合理主義や光=善の図式を批判し、〈闇→誤謬→超越〉という倒立した価値観を通じて「存在とは何か」を再考する試み。
闇尾超の死後、彼の「宇宙顚覆」の企図と存在論的探究は著者に継承され、読者もまたその思索の渦へと引き込まれる――それが本書の核心である。

