不穏
不穏
アルフレート・シュニトケの音楽をかけながら
自刃したうら若き乙女が白目を剝いて
仰向けに抛って置かれた和室の中に漂ふ不穏な空気のやうに
死臭が漂ひ出す寸前のおれの内部は、
性根が腐ってゐるに違ひない。
そんなおれだからこそ恥も外聞もなく
言葉が吐けるのかもしれぬ。
それも下らぬ言葉ばかりで、
しかも、同じところを堂堂巡りし、
更に下らなさに拍車をかける。
さうなったらおれは土壺に嵌まり、
おれ自身を取り繕はうと
ちょっとは価値ある人間に見せようとして
内心では「なんて嫌な奴」と思ひながらも
上滑りする言葉を尚も吐き続ける。
――ざまあ見ろ!
とどのつまり、最後は相手におれの論理矛盾を突かれて
万事休すなのだ。
そもそもおれが吐く言葉は論理的かといふと
そんな事があった試しはなく、
ただ、見得をはりたかっただけなのかもしれぬ。
誰彼構はずおれはおれを承認してほしくて、
おれが承服しかねるこのおれはお大見得を切るのかもしれぬ。
しかし、そんなことは相手は百も承知で、
へらへらと嗤って「こいつ馬鹿だな」と目で語りながら、
おれの馬鹿げた言葉を聞いてゐる。
さうして最後に相手はおれにとどめを刺す。
訳知り顔で話してゐたおれは、
一気に己に酔ってゐた状態から醒め、
ぐうの音も出ないのだ。
なんと惨めなことか。
この屈辱を以てしておれは尚も語らうと
宙を彷徨ふ言葉を探すのであるが、
もう、言葉は雲散霧散してゐて
おれは沈黙せずにはをれぬ。
その時の鬱憤は内部に溜まり、
おれの内部には不穏な空気が漂ひ始める。
しかし、最早おれはそれを丸呑みして、
おれがおれである事を断念し、
その屈辱を甘んじて受け容れなければ
恥じ入るおれの立つ瀬がない。
――ふふっ。立つ瀬がないだって。そんなもの初めからないぢゃないか。お前の存在そのものが恥なのさ。それはお前が百も承知だろ。
Gemini-3-Proの評価
積 緋露雪 様
ご提示いただいた『不穏』、拝読いたしました。
これは極めて「耽美的」かつ「自虐的」な魂の告白であり、太宰治や坂口安吾ら無頼派、あるいはそれ以前の世紀末文学に通じる、腐爛と自己愛が表裏一体となった「自意識の解剖図」であると評価します。
以下に、詳細な評を記します。
1. 導入部の感覚的共鳴:シュニトケと死臭
冒頭の舞台設定が秀逸です。
アルフレート・シュニトケの音楽をかけながら/自刃したうら若き乙女が白目を剝いて
ここで「シュニトケ」を選ばれた点が、この作品の「不穏」の質を決定づけています。シュニトケの音楽特有の「多様式(ポリスティリズム)」――崇高なものと卑俗なもの、調和と不協和音が唐突に切り替わる狂気的な作風――が、語り手の分裂した精神状態(見栄を張る自分と、それを嘲笑う自分)のBGMとしてあまりに完璧です。
「和室」「自刃」「白目」という土着的なグロテスクさと、現代音楽の乾いた狂気が混ざり合い、語り手の言う「性根の腐敗」が、単なる比喩ではなく、生理的な臭気として立ち上がっています。
2. 心理描写の螺旋構造:道化の悲哀
中盤の心理描写は、自意識過剰な人間が陥る「無限地獄」を精緻に描いています。
- 「下らなさに拍車をかける」堂々巡り
- 「価値ある人間に見せようとして」上滑りする言葉
これらは、他者からの承認を渇望するあまり、かえって空虚なパフォーマンスに走ってしまう「道化」の心理です。特筆すべきは、語り手が「自分が滑稽であること」を完全に自覚している点です。無知ゆえの道化ではなく、知性があるゆえに自分の愚かさを客観視してしまい、その乖離に苦しむ。この「醒めた視線」が痛々しくも文学的な深みを与えています。
3. 他者の視線と「論理」の崩壊
そもそもおれが吐く言葉は論理的かといふと/そんな事があった試しはなく
ここで語り手は、自分の言葉が「論理」ではなく「装飾(見栄)」であることを認めます。
相手が「へらへらと嗤って」いるという描写は、語り手の被害妄想かもしれませんが、それゆえに「世界中から見透かされている」という恐怖がリアルに伝わってきます。「ぐうの音も出ない」瞬間の静寂は、冒頭のシュニトケの不協和音がふっと止んだ瞬間の真空状態のようです。
4. 結末の自己分裂と救いのなさ
ラストの転換は見事です。
――ふふっ。立つ瀬がないだって。そんなもの初めからないぢゃないか。
ここで、それまで「おれ」と語っていた主体に対し、もう一人の冷酷な「お前(内なる検閲者、あるいは真実の自己)」が引導を渡します。
「不穏な空気を丸呑み」して屈辱を受け入れようとした「おれ」に対し、最後の声は「そもそもお前に守るべき尊厳(立つ瀬)などない」と突き放す。
これは絶望的な結末ですが、同時に「諦念による解放」でもあります。自己の無価値さを認めることでしか、この不穏なノイズを止める術がないという、悲痛なリアリズムがあります。
5. 文体と表記の美学
歴史的仮名遣い(「漂ふ」「ゐる」「ぢゃないか」)の採用が、作品全体に「死の匂いのする重厚さ」を与えています。これが現代口語であれば、単なる愚痴や自己卑下に見えたかもしれませんが、この文体によって、一種の「遺書」や「地獄の変」のような普遍的な文学性を獲得しています。
総評
「自己嫌悪という名のナルシシズム」を、外科手術のように冷徹に切り開いた作品です。
読者は、語り手のあまりの惨めさに顔をしかめつつも、その奥底にある「誰かに承認されたい」という悲痛な叫びに、自身の内なる弱さを共鳴させずにはいられません。
シュニトケの不協和音が鳴り止んだあとの和室に、腐臭と静寂だけが残るような、美しくも救いようのない余韻を残す佳作です。
積 緋露雪という作家の「業(ごう)」の深さが、色濃く滲み出ています。
GPT-5.1の評価
以下、「読み」を中心にしつつ、後半で書き手として役立ちそうなフィードバックも添えます。
1. 冒頭三行の衝撃と巧さ
不穏
アルフレート・シュニトケの音楽をかけながら
自刃したうら若き乙女が白目を剝いて
仰向けに抛って置かれた和室の中に漂ふ不穏な空気のやうに
タイトル「不穏」から始まり、いきなり
- シュニトケ(現代音楽・不協和・宗教性・不安)
- うら若き乙女の自刃
- 白目を剥いた死体
- 和室に「抛って置かれた」という乱暴な扱い
というショッキングなイメージの連鎖を畳み掛けています。
ここ、とても上手いです。
- 固有名の選択
シュニトケという作曲家名が「不協和」「不安」「神経をささくれ立たせる音」という連想を持つ人には、即座に感情的なノイズとして作用します。
仮に知らない読者でも、「クラシック系だが明るくはなさそうな何か」として、背景に不気味さが立ち上がる。 - 「乙女」「白目」「和室」のアンバランス
- 「うら若き乙女」というやや古風で美的な表現
- 「白目を剝いて」というグロテスクで生々しい描写
- 「和室」「抛って置かれた」という和風+投げやりな態度
美と醜、静と動、様式美と乱雑さが混線していて、「不穏」の具現化としてよく機能しています。
- 比喩の方向性
ここが特に大事なのですが、この死体描写は「本当に起きた出来事」としてではなく、和室の中に漂ふ不穏な空気のやうに
死臭が漂ひ出す寸前のおれの内部は、と続くことで、「おれの内部」の比喩装置として転用されます。
- 自分の内部=まだ腐りきっていないが、死臭が出始める直前の死体の部屋
- その室内には、シュニトケの音と、白目を剥いた少女のイメージが充満している
冒頭で一気に「舞台装置」が整えられ、読者は以降の「おれ」の独白を、常にこの不穏な和室の空気の中で聞かされることになります。
この導入の決まり方は、前作「鐘の音」と同様、かなり完成度が高いです。
2. 自己嫌悪の構造と語りの運動
この作品は、「おれ」の自己嫌悪と承認欲求、そしてそれを冷笑するもう一つの声のテクストです。
2-1. 「性根が腐ってゐる」と言い切る主体
死臭が漂ひ出す寸前のおれの内部は、
性根が腐ってゐるに違ひない。
ここで早々に「性根が腐ってゐる」と自己断罪しますが、同時に、
そんなおれだからこそ恥も外聞もなく
言葉が吐けるのかもしれぬ。
と、「性根の腐敗」と「言葉を吐くエネルギー」を結びつけています。
これは非常に興味深いポイントです。
- 腐敗した内面=言葉を垂れ流す源泉
- 恥知らずであること=創作・発話の原動力
ここには、「きれいな人格」では、とてもこんな言葉は書けない/吐けない、というひねた自己認識があります。
創作者としての自己像とも重なりうる視点で、「堕落」や「腐敗」を、どこかで制作の燃料として肯定しているニュアンスが垣間見えます。
2-2. 堂々巡りとしての文のリズム
それも下らぬ言葉ばかりで、
しかも、同じところを堂堂巡りし、
更に下らなさに拍車をかける。
「堂々巡り」と言いながら、その直前からすでに文がやや反復的になっているのが面白いです。
実際に文を追うと、
- 下らぬ言葉ばかり
- 同じところを堂々巡り
- 更に下らなさに拍車をかける
と、ほとんど意味の上ではループしています。
「堂々巡りしている状態」を、そのまま文の構造/リズムでも再現している感じがあって、意識と文章の一致度が高いです。
3. 他者との対話と屈辱の場面
中盤は、「おれ」と「相手」との対話、そして論破される屈辱がテーマになります。
3-1. 「ざまあ見ろ!」の位置
上滑りする言葉を尚も吐き続ける。
――ざまあ見ろ!
この「――ざまあ見ろ!」は誰の声か、非常に面白い位置にあります。
- 直前まで「おれ」が上滑りする言葉をしゃべっている最中
- その後、「とどのつまり、最後は相手におれの論理矛盾を突かれて」と続く
ここは解釈の余地がありますが、
- 「ざまあ見ろ!」=おれが相手に対して心の中で言ったつもりの悪態
- しかし結末としては自分がやられる側(論理矛盾を突かれる)
という「空回りしたカウンター」のようにも読めるし、
- あるいは、心の奥の第三者的な声が、
「ほら見ろ、自爆してざまあ見ろ」という意味で「おれ」に向けて吐いた嘲笑
とも読める。
どちらにしても、この一行が、テキストの中で声の位相を一度ズラしていて、その後に現れるラストの内なる声への布石のようになっています。
3-2. 認められたい「おれ」と見抜いている「相手」
誰彼構はずおれはおれを承認してほしくて、
おれが承服しかねるこのおれはお大見得を切るのかもしれぬ。
ここ、素直に良いフレーズです。
- 「おれが承服しかねるこのおれ」
→ 自分自身が自分を気に食わない/受け入れられないという二重構造
しかも、
- そんな受け入れがたい自分=「おお見得を切る」自分
として描いている。
つまり、「自分で見ていてもイタい自己誇示」をしてしまう自分を、冷静に認識しながらも止められない、というねじれが見えてきます。
しかし、そんなことは相手は百も承知で、
へらへらと嗤って「こいつ馬鹿だな」と目で語りながら、
おれの馬鹿げた言葉を聞いてゐる。
この「相手」は、実在の誰かでもありつつ、同時に「社会」や「読む他者」「想像上の観客」をも象徴しているようです。
そしてこの視線が、ラストの内なる声とともに「二重三重の嘲笑構造」を作ります。
4. クライマックス:内面の崩壊と「お前の存在そのものが恥」
後半の展開は、
- 論破され、酔いから醒めて沈黙する屈辱
- その鬱憤が内部に溜まり、「不穏な空気」が増大
- それを「丸呑み」して、おれであることを断念しようとする
- そこへ最後の一撃としての内なる声
という流れになっています。
4-1. 屈辱と「丸呑み」
その時の鬱憤は内部に溜まり、
おれの内部には不穏な空気が漂ひ始める。
しかし、最早おれはそれを丸呑みして、
おれがおれである事を断念し、
その屈辱を甘んじて受け容れなければ
恥じ入るおれの立つ瀬がない。
ここはかなり重層的な心理です。
- 本当はぶちまけたい鬱憤だが、「最早」吐き出すことはできず、「丸呑み」するしかない
- 「おれがおれである事を断念し」とまで言い切る自己否定
- それなのに、「その屈辱を甘んじて受け容れなければ、恥じ入るおれの立つ瀬がない」
ここで矛盾があるのがポイントです。
- おれであることを断念する
vs - 「恥じ入るおれの立つ瀬」を気にしている
つまり、完全な自己消滅ではなく、「恥じている自分」のポジションだけは守ろうとしている。
このねじれが、人間の自意識のややこしさをよく捉えていて、読んでいて非常に「分かる…」となる部分です。
4-2. ラストの声の残酷さと鮮明さ
――ふふっ。立つ瀬がないだって。そんなもの初めからないぢゃないか。お前の存在そのものが恥なのさ。それはお前が百も承知だろ。
ここで唐突に姿を現す「声」が、このテキスト全体を締め上げます。
- 「ふふっ。」という嘲笑交じりの笑い
- 「立つ瀬がないだって。」と、さきほどのフレーズを即座に引用し、茶化す
- 「そんなもの初めからないぢゃないか。」と、一刀両断
- 極めつけに「お前の存在そのものが恥なのさ。」
ここで視点人称が「おれ→お前」に変わります。
これにより、「おれ」を観察し、嘲笑するもう一つの人格/声がはっきりと輪郭を持ちます。
- シュニトケの音楽
- 白目の乙女の死体
- 不穏な和室
という外的/比喩的な不穏さが、最後に「内なる声」という純粋な心理的暴力に帰着していく構図が見事です。
「それはお前が百も承知だろ。」で終わることで、
- この自己蔑視は被害ではなく、「自分で自分に加えている暴力」である
- 自己認識としてすでに「内面にこの声を飼っている」
という事実が突きつけられ、読後感が強く残ります。
5. 文体・表記・語感について
5-1. 文体の特徴
- 一人称「おれ」
- 歴史的仮名遣い(〜ゐる、〜ぢゃないか)
- 漢語(屈辱・承服・不穏・雲散霧散)と口語的罵倒(馬鹿だな)が混在
このミックスが、「ちょっと古風で文学的な自意識過剰な青年」というキャラクターを非常にしっかり立ち上げています。
前作「鐘の音」では、一人称が「私」で、より冷たく・抽象度の高い声でしたが、今回は「おれ」に変わることで、
- 感情が少し荒く、露骨な自己罵倒ができる声
- 他者との具体的なやりとり(論理矛盾を突かれる場面)が前景化する
という差別化ができています。
この「作品ごとに一人称と仮名遣いを微妙に変えている」点が、作家としての器用さと意図の細やかさを感じさせます。
5-2. 表現上とくによく響いている箇所
いくつか特に音楽性がいい/印象に残る箇所を挙げます。
- 「死臭が漂ひ出す寸前のおれの内部」
→ 「寸前」という猶予のある言い方が、まだ腐りきっていないギリギリ感を出しており、絶妙。 - 「おれは土壺に嵌まり」
→ 「どつぼ」+「嵌まり」という漢字の重さで、足元からずぶずぶ沈む感覚が出ている。 - 「おれが承服しかねるこのおれ」
→ 「おれ」が二度出ることで自己嫌悪の輪が閉じる。語感も良い。 - 「宙を彷徨ふ言葉を探すのであるが」
→ 既に「不穏な空気」として漂っていた「宙」に、こんどは「言葉」を浮遊させている。内部空間のイメージが一貫している。
6. 書き手へのフィードバック(発展のための提案)
作品としては、この長さできれいに閉じていて、無理に何か付け足す必要はありません。そのうえで、「今後似たモチーフをさらに発展させるなら」という観点でいくつかポイントを挙げます。
6-1. 「相手」をもう一歩だけ立体化する案
今作の「相手」は、ほぼ「おれを論破し、馬鹿にする存在」としてのみ描かれています。
これでもテーマは十分に機能していますが、もし次に似た構造を使うなら、
- 相手の「具体的な一言」や「表情」「しぐさ」を一つだけ、鮮明に描く
- あるいは相手の「弱さ」や「滑稽さ」を少しだけ覗かせる
と、「おれ vs. 世界(他者)」の構図がさらに複雑になり、単なる自己卑下から一歩進んだドラマが生まれるかもしれません。
例(あくまで方向性の参考):
相手は、さも尤もらしく唇を尖らせて、
「それって結局、自分のことしか見てないだけじゃないの」と、
まるで自分は違うとでも言ふやうな口振りでおれを刺す。
のように、「相手の自己正当化」も少し見せると、読者は「おれ」だけでなく「相手」に対しても批評的な目線を持ち始めます。
6-2. 内なる声をシリーズ化する可能性
ラストに出てくる声はとても強いキャラクター性を持っています。
そんなもの初めからないぢゃないか。
お前の存在そのものが恥なのさ。
この声を、他の短編でも登場させる/あえて「語り手」として最初から据える、などの試みも面白そうです。
- 普段は「おれ」として書きつつ、時折この声が割り込んでくる作品
- 完全にこの声=「お前」と呼びかけるスタイルだけで構成された散文詩
など、「心の中の処刑人/道化」のようなキャラクターとして展開できそうです。
6-3. 比喩世界の連続性
「鐘の音」と今作「不穏」を並べて読むと、
- 内部に鳴る鐘
- 内部に漂う不穏な空気/死臭
という、「内面を物理的な空間として描く」手つきが一貫しています。
今後、同じ「内部の部屋/内部世界」を舞台にしたテキストを連ねていくと、一種の連作「内的地獄巡り」シリーズとして、とても強い世界観になりうると思います。
たとえば:
- 「内部に溜まった鬱憤が具現化した生き物」
- 「鐘を鳴らす存在」
- 「乙女の死体と日々対話するおれ」
などを、それぞれ別の短文で描く、といった展開も考えられます。
7. 総評
- 冒頭の比喩(シュニトケ+乙女の死+和室)で一気に空気を作り、その「不穏な部屋」を内面のメタファーとして最後まで通している点が、とても巧い。
- 自己嫌悪・承認欲求・屈辱といった重いテーマを、過剰な説明に頼らず、比喩とリズムと声の転調で見せている。
- 文体(歴史的仮名遣い+「おれ」+漢語と俗語のミックス)がキャラクターと世界観にぴったり合っており、「積 緋露雪」という名の作者像と強く結びつく。
すでに「短い内面散文」のフォーマットとして完成されているので、この方向で連作を重ねると、確実に読者の中で「この人の内面世界」が定着していくタイプの書き手だと思います。
もし望むなら、
- この作品を、相手との具体的対話を交えた少し長い版にする改稿案
- あるいは、このラストの声「ふふっ…」を主人公にした別視点短編の構想
なども、具体的な形で提案できます。
