この文書「審問官Ⅰ」は、自己存在の根源的な問いに深く分け入り、苦悩し、思索を重ねる主人公「彼」の精神の軌跡を描いた物語です。物語は三章から構成され、それぞれ「喫茶店迄」、「杳体」、「轆轤首」と題されています。
第一章「喫茶店迄」
主人公「彼」は、絶えず内部から湧き上がる自己告発の声に苛まれ、自己の《存在》そのものに懐疑的であり、自殺以外の方法でこの世から自身を葬り去ることばかりを考えていました。彼は「黙狂」という、言葉を発しようとすると数多の言語が一斉に湧き出し渾沌に堕して無言になってしまう状態にありましたが、その沈黙こそが全てを語っているのだとも述べています。
学生時代の終わり頃、彼は突如として積極的に行動し始め、ある会社に就職しますが、過労から不治の病にかかり精神病院に入院します。彼の死は奇妙なもので、看護師を呼んでは不敵な薄ら笑いを浮かべ、突然哄笑したかと思うと息を引き取ったとされています。
彼の死後、妹から託された大学ノートには、「主体、其れ主体を弾劾すべし!」と記され、「吾、吾を断罪す。故に吾、吾を破壊する―― 。」という一文から始まる手記が綴られていました。この手記は、主人公が「雪」という女性と出会ったことで《自死》を意識せざるを得なくなったこと、自身の美貌や女性関係、そして埴谷雄高が言う人間の二つの自由(子を産まぬ事と自殺する事の自由)のうち、自殺の自由の行使ばかりを考えていたことなどを述懐します。しかし、自殺は地獄行きであり、《吾》であり続けることを恐れて実行には移しませんでした。
主人公には他人の死相が見える能力があり、それが彼を苦しめていました。大学構内で「雪」と出会った瞬間、彼は彼女の過去の陵辱体験を垣間見ます。二人の間には言葉を超えた以心伝心が存在し、雪は彼に一目惚れしたと語ります。
主人公は「雪」や友人たちとの交流の中で、自身の「黙狂」の原因が、短い人生の予感と、内なる《未来》の時系列的秩序の欠如にあると分析します。雪の頭に手を置いた時、彼は無音の《言葉》で彼女の心の傷を癒そうと試みます。その直後、彼は眩暈に襲われ、漆黒の闇の中に金色の釈迦如来像と勾玉状の光雲を見るという神秘体験をします。この体験を通じて、彼は自らの《死》が間近に迫っていることを悟り、名状し難い《幸福》を感じます。
その後、雪と共に古本屋街を巡り、「キルケゴール全集」を注文し、武田泰淳の『富士』を選びます。雪との筆談を通じて、ウィリアム・ブレイクの詩や哲学(ヘーゲル批判、東洋思想への関心)、自由と秩序、生殖と遺伝子、宗教観など、多岐にわたる深い思索が交わされます。特に「革命家の教義問答」を引用し、自由の本質について議論を深めます。
主人公は、タバコと酒が自身の鎮静剤であり、《生》を実感するための《毒》であったと語ります。マリー・ローランサンの詩「鎮静剤」を引用し、自己を重ね合わせます。彼は、自己破壊願望と生への執着という矛盾を抱えながら、狂気と正気の狭間で生きていたのです。
月光の下、雪との静かで満ち足りた時間を過ごす中で、彼は再び死者の魂魄の気配を感じます。そして、重力や月の神秘性、死生観について思索を巡らせます。最後に、雪と共に目的の喫茶店に到着し、第一章は終わります。
第二章「杳体」
喫茶店に入った主人公と雪は、甲君、乙君、丙君(猊下)、丁君、そして「君」といった仲間たちと合流します。主人公が「杳体御仁」と呼ばれる所以や、「杳体」という概念について議論が交わされます。「杳体」とは、埴谷雄高の「虚体」をも呑み込む《存在》の有様であり、宇宙の転覆を志向する何かとして提示されます。オイラーの公式 (e^(iπ) + 1 = 0) や虚数iのi乗が実数になることなどが、「杳体」論の暗示として語られます。
雪は西洋哲学(実存哲学)を専攻しているものの、現在はインド哲学や仏教に関心を抱いていることを明かします。仲間たちは、渦、複素数、肉体と精神の二元論、言葉と実存といったテーマで活発な議論を展開します。
主人公は、自身の「黙狂」状態の原因が、黄金色の仏像の夢を見た日以来、絶えず死者の霊に憑依され続けていることにあると筆談で語ります。雪は、主人公の特異な能力や苦悩を深く理解し、共感を示します。
「人は麺麭のみに生くるに非ず」という言葉を巡っては、信仰、神の存在、歴史、現代社会における《生》の意味などが多角的に論じられます。雪は、主人公に一目惚れした理由や、彼との精神的な繋がりについて語ります。
議論は「杳体」の解釈へと深まり、仲間たちはそれぞれの見解を述べます。丙君は《杳体》を有限から無限へ至る飛躍を媒介するもの、甲君は此の世に《存在》しない《もの》、雪は彼の世を包摂した《未出現》の《世界》などと捉えます。物語は、主人公が《杳体》という未解明な概念を抱えながら、仲間たちとの思索を通じて自己存在の深淵を覗き込もうとする姿を描き出します。
第三章「轆轤首」
この章では、唐突に「轆轤首」と題された手記が始まります。現代人がパソコンやスマートフォンのモニター画面を通じて仮想空間に接続する様を、首だけが伸びて本体から遊離する妖怪「轆轤首」に喩え、現代文明における身体性の喪失と意識の偏重を批判的に考察します。
言葉を発した時点で「現存在」は轆轤首へと変容する宿命にあったとし、科学技術の発展、特に情報化社会がその傾向を加速させたと論じます。仮想空間は、現実の色(肉体性・五感)が欠落した《四蘊場》であり、轆轤首はその中で情報や知識を貪り、自己の意識を肥大化させますが、それは現実からの逃避であり、深い虚無感を伴うと指摘します。
職人技のような身体性を伴う労働の価値が失われ、情報消費が中心となる社会では、人間は鑑識眼を失い、使い捨て文化に慣れてしまうと警鐘を鳴らします。また、東日本大震災のような巨大災害時には、情報化社会の脆弱性が露呈し、人間の本能的な行動や直接的な体験の重要性が再認識されたと述べます。
ITの進化は、文字情報と動画コンテンツへと二極化し、「現存在」はますます轆轤首としてのあり方を深めていきます。この状態は、自己同一性の問題を孕み、内的自由と現実逃避の狭間で揺れ動く現代人の姿を映し出します。
主人公は、《吾》と《異形の吾》、《パスカルの深淵》、《個時空》(個々の主体が持つ特有の時空間)といった独自の概念を用いながら、自己存在の複雑な構造を分析しようと試みます。思考や意識は渦のようなものであり、宇宙や素粒子、脳といった異なるスケールの現象も、根源的には共通の原理(超渦理論)で理解できるのではないかと推測します。
しかし、こうした思索は堂々巡りに陥りやすく、《吾》の本質は容易には掴めません。轆轤首と化した《吾》は、現実から遊離し、自己の内部(五蘊場)に閉ぢ籠もりますが、そこでもまた《反=吾》や《異形の吾》との対立と葛藤に直面します。この自己分裂と自己言及の無限ループは、現代人の精神的な病理を象徴しているかのようです。
最終的に、この手記は、《杳体》という概念を、永劫の相の下で《存在》が解体され相転移する極限のあり方であり、また、《生》と《死》の間に存在する緩衝材のようなものとして捉え直します。《世界》が未知であるからこそ《生》は豊かであり得るとし、《杳体》という謎めいた存在を許容することによって、人間はかろうじてこの世に存在し得るのだと結論付けています。しかし、それは同時に、《生》が《死》へと一直線に向かう儚い軌跡であるという、根源的な諦念をも含んでいます。
この文書は、深遠な哲学的思索と文学的表現が融合した、濃密な精神の探求の記録と言えるでしょう。

