紫煙に見(まみ)える
やっと人心地がつく此の悪癖に、
「煙草は体に毒」だからと言って
無理強ひに止めさせようとする輩に出合ふが
そんな輩のいふ事など聞くに値しない。
何故というに、そいつらは「死」の恐怖を身を持って回避し、
「健康」が恰も善のやうな錯覚の中で自尊してゐる馬鹿者なのだ。
「死」の近くにゐなくて、どうして「生」が語れるといふのか。
肺癌で亡くなるのも結構ではないか。
膀胱癌でなくなるのも結構ではないか。
――ふっふっふっ。
と内部で嗤ひが堪へ切れずに、
「煙草」の紫煙を燻らせながら、
肺が真っ黒になるまで、「生」の闘争は続くのだ。
吐き出される紫煙が人型に変はり、
たまゆらに《吾》をきっと睨むぞくぞくする感じは、
何《もの》にも代えがたい至福の時であり、
これが「死」を連想させる現代の論理に縛り付けられし、
煙草の宿命は滅びに美を見た《もの》にのみ
死神の跫音がひたひたと迫りくる幻聴の中、
ブレイクのvisionを《吾》にも見せる入口を紫煙のくゆる中には確かに存在するのだ。
――それは単に脳の酸素不足が為せる業だぜ。
――絶食が幻視を見せるのと同じやうに紫煙による脳の酸素不足が無意識の《吾》の本性を眼前に指し示すのだ。