地獄再生
そもそも地獄なくして、此の世に《生》を継続させることには無理があり。
地獄が復活したならば、それは《吾》の自意識が、若しくは「魂」が永劫に《存在》することの証左なり。
何故なら、地獄の責苦を受けている《もの》は一時も《吾》であることを已められず、卒倒することも許されぬのだ。仮に気を失うことがあれば、それは、地獄の責苦を無力化し、況して地獄の無力化にしかならない。
「魂」は現世の有様で閻魔大王の審判により、また、最後の審判により、地獄か極楽か、若しくは天国や浄土かに行くことを振り分けられ、《吾》であり続ける「魂」は永劫に《吾》である事で、現世での行ひの責任を取るのだ。
それが理不尽だ、とする向きが大勢を占めていた時代は終はったのだ。やはり、閻魔大王は《存在》し、また、最後の審判もあるのだ。
さうでなくして、「現存在」は現世での《生》を続けられぬのっびきならぬところに追ひ詰められし。
崖っぷちに《主体》と《客体》は共に追ひ込まれ、「ままよ」とばかりにその崖から飛び堕ちたところ、そこは、地獄が燦然と輝く、平安なる《世界》があったのだ。
地獄は、《生》と《死》を共に輝かせるのだ。地獄のない《世界》の虚無感は、もう言はずもがな。Nihilism(ニヒリズム)が永らく蔓延ってゐたが、地獄の再生により、Nihilismを克服したのだ。
――何故、Nihilismを?
――永劫が時間にはそれが《存在》する必要条件になったからさ。
――時間の必要条件?
――さう。時間もまた、永劫を欣求してゐるならば、時間もまた、一次元である筈がないのさ。つまり、時間もまた、何次元かは現時点では名指せぬが、蓋然的に∞次元の相を持った《もの》としてもその表象は現はれる可能性があるのだ。
ゆっくりと一日が暮れゆく時、途轍もない淋しさに陥る《吾》の憤怒は、正坐をして遣り過ごさなければならない。さうして、はっきりと括目して時間を形にならない、否、形に宿る時間を見るのだ。