それは地中から際限なく立ち上る湯気のやうに
直ぐに辺りは濃い朝靄に包まれ、
その中に消ゆる独りの影があったのだが、
瞬く間に朝靄の中に消えてしまったのだ。
これはドッペルゲンガーなのか、
濃い朝靄の中に消えた人影は私だと直感的に解かったのだ。
さて、困ったことに私には足がなかったのだ。
濃い朝靄に消えた人影の後を追ふことが出来ずに
噎せ返るやうな朝靄の中にぽつねんと佇む以外に何も出来なかったのだ。
とはいへ、私の下半身は朝靄に溶け入り、
既にその姿形は失せてゐる。
岸壁に舫(もや)ふ一艘の船のやうに
私は一歩も動けないのだ。
それが私が私に対する苦しい姿勢なのだ。
さうして、私は、私の影を見失ひ、
尤も、私を見失った私とはいったい何なのであらうか。
救いは此の濃い朝靄なのだ。
朝靄に上半身のみが此の世に現はれた私もまた、
此の濃い朝靄に消ゆる独りの人影に過ぎぬ。
その時間、私は何を考へてゐたのだらうか。
まるで記憶喪失のやうに私はその時の私の頭蓋内に巡ってゐた思考を
全く亡失してゐて、唯、私から逃れ出た私の影の残滓を追ふばかりではなかったのか。
そもそも私は、私が存在するには劣悪な環境なのだ。
そのもんどりうちながらも私が私にある事を我慢する私は
既に堂堂巡りの中にいる。
堂堂巡りこそが、私に残された思考法なのだ。
最早弁証法はその神通力を失い、思考に対して害悪しか齎さない。
私は、独りぽつねんと濃い朝靄の中で、逃げ行く私を見てしまったのだ。
芥田川龍之介によれば、ドッペルゲンガーは死期が近いという事を表はしてゐるらしいが、
そんな事は全く気にせずに、
私は朝靄に溶け入る私を此の世に縛り付けるやうに踏ん張るしかなかったのだ。
濃い朝靄がまるで地中から無際限に立ち上るやうに何時までも消えずに街を蔽っていゐた。
それは暫く消ゆることはなかった。