《吾》の頭上を流れゆく雲は
絶えず変容して已まぬのであるが、
その中で《吾》は、
流れる雲の如くに絶えず変容してゐると断言できるのか?


仮に《吾》が変容する事を一度已めてしまったならば、
果たして《吾》は《吾》足り得るのか?


あの空に浮かび、風に流されゆく雲は、
気圧と気流と水蒸気との関係から、絶えずその姿を変へるのであったが、
《吾》にとって気圧や気流や水蒸気に当たるものは何かと問へば、
それは《他》と《森羅万象》と《世界》、つまり、《客体》と答へればいい。


雲が姿を変へるのは雲の赴くままに全的に雲に任せればいいのだ。
雲は雲にも宿ってゐるに違ひない《吾》が為りたいやうに変容してゐるのではなく、
雲を取り巻く環境、若しくは《世界》に応じて
無理矢理とその姿を変へるのだ。
それでも雲を見る度に
雲が己自体で姿を変容してゐると見えてしまふ此の《吾》のちっぽけな哀しみは
《吾》が《世界》を認識出来ぬ焦りからか、
《吾》が《吾》で完結する夢想を今も尚抱へてゐるに過ぎぬのか?


このちっぽけな《吾》は
絶えず《吾》でなければならぬのだ。
さうして初めて《吾》は《世界》を認識し得るのだ。
さうして初めて《吾》は《吾》と呼ぶがよい。
そして、《吾》もまた《世界》によって変容を強要されるのだ。


ざまあみやがれ!
さうして《吾》は自嘲出来、
たんと此の世に佇立する。


そんな《吾》の頭上を雲が変容しながら流れゆくとき、
《世界》は、《森羅万象》は、《吾》を自嘲する嗤ひ声の大合唱に溺れ行くのだ。
――ぐふ。嗚呼、何故に《吾》は《世界》に《存在》し得るのか?
積 緋露雪

物書き。

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積 緋露雪

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