何を思ったのか、彼は不意に哄笑したのである。そのひん曲がりながらも高らかな嗤ひ声には彼の置かれた状況が象徴されてゐて、と、突然彼は涙をその瞳に浮かべたのである。何が哀しかったのだらぅか。
――そんな事も解からないのか。存在がそもそも哀しいのさ。
――馬鹿らしい。そんな事は誰もが思ふ事で、殊更に言挙げする必要などないぜ。
彼は何とも名状し難い皮肉に満ちた嗤ひ顔で尚も涙を流すのであった。
――醜いぜ。男がそんなに泣き顔を世間に晒すのは醜悪以外何ものでもないぜ。
――なに、死を前にした男の一泣きを、つまり、Swan song(スワン・ソング)を聞く事がそんなに気色悪いかね?
彼は尚も頬に涙を流し、噎び泣くのであった。
曇天の鈍色の雲は竜巻を巻く積乱雲の底のやうに地面近くまで垂れ込めて、彼の泣き声を掬ひ取ったのであった。
――死を前にした男の泣き声ね、ふっ。お笑ひ種だね。そんなものなど端からある筈がないぢゃないかい? 生まれちまったものは死を抱きしめるしかないのに、何を今更泣く必要があるのかね。全く話にならないね。
その時彼の視野の外縁に突然光が飛び込んできたのであった。それは何だか巴の、若しくは陰陽五行説の太極のやうな勾玉の形をした、つまり、精虫の如くに卵子の如き彼の眼に飛び込んで来たのであった。さうして、彼の内部には何かが誕生したのである。それが何なのかは、彼が口を開くまで解からぬ事であった。
――何が見えたのかね?
――何、『お前は死の床に就け!』との天の声が聞こえたのさ。
――天の声? 馬鹿らしい。
――お前にかかると何もかもが馬鹿らしいのだな。それぢゃ生きてゐて詰まらなくないかい?
――余計なお世話さ。
――さう。何もかもが余計なお世話なのだ。それでも此の世には絶えず何かが生まれ、そして、絶えず何かが死んで逝くのだ。諸行無常。森羅万象はこの摂理に対して全くの無力で、それを有無も言はずに造化のままに受容する外ないのだ。それが、果たして何物も我慢出来る代物かね。俺には我慢がならぬのだ。俺にはまだ俺の死は受け容れられぬ。
――……。
ここに彼の進退谷まれり。
さうして彼は茫然と渺茫とした世界を眺めながら、静かに瞳を閉ぢて、死に旅へと出立したのであった。
何ものも 吾を入れる物ならず それ故独り秋月を見る
常世をば 誰もが望み崩れゆく それもまた乙なものとして 夢見するのか
『進退谷まれり』
流れゆく雲を眺め、
それが既に際どい状態にあることを察知せよ。
さもなくば、お前は既に「死んでゐる」
それで構わぬといふのであれば、
それをお前は絶えず示威しなければならぬのだ。
そんな愚劣な時代がもうやって来てしまったのだ。
誰も彼処も愚劣にも吾を主張し、
個性の時代等とほざきやがる。
しかしながら、その主張する個性はうざったく、
眼の毒でしかないのだ。
個性はできる限り隠す事が
他者に対する最低限の礼儀だらう。
能ある鷹は爪を隠すとあるやうに
個性は性器と同様に衆目に晒すには羞恥を堪へ忍ぶ覚悟がゐる。
さうして、吾は進退谷まれり。
それは司馬遷の如くに、そして武田泰淳の如くに。