それは一体何なのだらうか。
仄かにその気配だけが感じられる存在と言ったらいいのか、
何やら傍らにゐるに違ひないのだが、
それを「これだ」と名指せぬのだ。
名指せぬ故にそれを存在するものとして認識出来ず、
俺はくっと奥歯を噛みながら、
この何とも言ひ難い事態を我慢するしかないのだ。


それは俺の世界観を全く覆すほどの出来事に違ひないのであったが、
何とももどかしく、終ぞ名指せぬのである。
つまり、言葉では言ひ表せぬものが俺の傍らには存在するのであったが、
それが「ある」とも断言出来ず、
その仄かな気配を漂はせる何ものかは
しかし、ある、若しくはゐるのである。


そんなわけで俺は瞑目するのである。
さうして瞼裡に現はれる表象群は
傍らにゐるものの気配をじんじんと感じながらも
俺を翻弄するに十分なのだ。


何が俺を此処に佇立させ、
さうして瞑目させるのか。
つまりは俺の傍らにゐるに違ひないそのものの気配に
俺はさう感じるだけで既に翻弄されてゐて、
俺の存在はそれにより脅かされてゐるのかもしれないのだ。


「そんな奴」と名指してみても
それは全く的外れで、
例へば、それを霊と看做したところで、
単なる気休めでしかなく、
幽霊ならば、まだましなのだ。


それ程に俺を苦悶させるそれは
俺を心底震へ上がらせ
俺はそれを名指す事で
この仄かに気配を漂はせてゐるそれを
言葉の槍で串刺しにせずば、
俺の存在そのものが足を掬はれかねぬのだ。


仄かにその気配を漂はせてゐるそのものにとっても
俺の存在はきっと恐怖の存在なのかもしれず、
双方にとってその気配は恐怖の対象でしかないに違ひない。


嗚呼、瞼裡で移ろひ行く表象群は
俺を嘲笑ってゐるのか、
俺の思考するものとは全く関係ないものを映し出し、
それに俺の注意を惹き付けずにはをれぬのだ。


とはいへ、俺の傍らにその仄かな気配を醸し出すそのものは
何時まで経っても俺から離れようとはせずに、
絶えず俺を脅かせて嗤ってゐるに違ひないのだ。


「よろしい」


さう呟いて、俺はぺっと唾を吐いて自嘲してみたが、
その仄かにその気配を漂はせるそのものも
ぺっと唾を吐き捨てたやうに感じ、
俺はまたしてもどうにもならぬ不快の中に
俺は俺の意識を沈めるのだ。
さうして溺死する俺を想像しては
一時の安寧を得るのだ。


さう、死こそがその仄かに気配を感じさせるそのものの弱点なのは、
初めから俺は知ってゐたのであったが、
それには何としても目を瞑り、
そのものが傍らにゐる気配がある限り、
死は御法度なのも俺は知ってゐたのだ。
積 緋露雪

物書き。

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積 緋露雪

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