時の流れの中にもんどり打って飛び込まざるを得ぬ此の世の存在物どもは
既にその存在が滅する宿命を授けられながらも存在する不合理に
絶えず目眩を覚えつつ、ふらふらと立ち上がらうとするのだが、
此の世の不合理はそんな事にお構ひなしに止めどなく時を移ろはす。


そもそも時間とは何なのであらうか、と、とんでもない愚問を己に発し、
さうして俺は《Fractalな渦》と時間に関しては素知らぬ顔をして答へるのだ。


そもそも時間が一次方程式のものとして看做せる必然性は全くないにもかかはらず
無理強ひして時間が先験的に一次方程式として振る舞ふものと看做す知性は
その根拠を全く知らぬではないのか。
時間を量子論と結びつけて考へる思考もあるにはあるが、
それでも時間は一次関数の域を出ない。


時間が∞次元とする思考法は果たして誤謬なのであらうか。
時間を一次方程式に閉じ込めた事で、
物理学は発展したのは確かであるが、
それはしかし世界認識のたった一つの認識法でしかなく、
世界認識はそもそも多様でなければならぬのではないのか。


仮に時間が∞次元とすると物理法則は新たに書き換へられなければならないのであるが、
それをやらうと人生を擲っていきり立つ己の憤懣に対して正直になれば、
先づは時間の一次形式からの解放が己の仕事なのかもしれぬのだ。


時間を一次形式の中に封じ込める事で
此の世の癖たる法則性を見出したのではあるが、
時計で時間を計る事の欠陥は、
時計が既に物質の振動子の振動数から導くか
歯車複合体により回転する《渦》としてそれを計測してゐるのだ。
つまり、振動子が回転に変換可能な事は勿論の事、
歯車複合体のAnalogue時計は《渦》の象徴である事は言はずもがなである。


それでは∞次元の時間とは如何なるものなのかと言へば、
それは最早現在の物理法則では数式の態を為さないものになるべきで、
例へば力学の運動方程式の微分積分は既にその運命を終へて、
時間もまた、何かによって微分積分されるものとしてその姿を現はすのだ。


その何かとは何であるかと言へば、現時点では不明であるのであるが、
しかし、仮にその何かを《変移子》と名付ければ、
その《変移子》は時間の構成要素の基礎、
つまり、時間の素粒子と言ふべきもので、
時間もまた、何種類もの《変移子》で成り立ってゐるのだ。


と、余りに馬鹿げたことをほざかざるを得ない俺は、
世界が嫌ひなのである。
物理数学で表記される世界が嫌ひなのだ。
勿論、感性で語られる世界はもっと嫌ひなのだ。


世界はまた、その認識法が未知な方法がある筈で、
そもそも世界認識には未開な部分が大半を占めてゐるに違ひなく、
それ故に存在それぞれにとって全く違ふ世界があるのだ。
それぞれ違った世界認識は他の世界認識と摺り合はせながら
それを以て共通認識の世界が存在するとの先験的な誤謬は、
そろそろ現存在は気付くべきなのだ。


ハイデガーが『存在と時間』を書くのを中途で已めてしまったが、
その続きはハイデガーの信望者により書き進められねばならぬ。


そして、その内容は、これまでの物理学的な世界認識から自由な、
しかしながら、現代数学を駆使した世界表記であるかもしれず、
時間は感性に帰する事は余りに馬鹿げたことに違ひない。


ともかく、存在は既に存在する事で
もんどり打って流れる時間の中に飛び込まされてゐて、
何時しか、それに溺れさうになってしまったのだ。


万物は流転するとは太古のギリシャの哲人の言葉であるが、
流転を∞次元形式の時間で書き換へる事は、
己の最低限の此の世に対する受容される姿勢なのである。
積 緋露雪

物書き。

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