気配すらをも潜めし《それ》は、
自らの意思、否、《念》において
「先験的」に《吾》は《存在》すると自覚してゐて、
カント曰くところの「物自体」は
全てかっと目を開き、
世界を睥睨してゐる《存在》として
此の世界に確かにゐるのだ。
――世界が本質に先立つ?
馬鹿な、
世界にとって《吾》の《存在》なんぞ、
どうでもよく、
《吾》が死なう生きようが窮極的には知ったことではなく、
全く的外れなそんな問ひに対して
「物自体」は
――ひっひっひっ。
と、嘲笑してゐる筈である。
思弁的超越論において、
《吾》の問題も《他》の問題も
幽霊の《存在》を認識するかしないかの違ひでしかなく、
そんな幽霊のやうな世界に対して、
――世界が本質に先立つ。
などと言ふ馬鹿げた問ひを発する此の《吾》は、
まだ、これまで一度も「私」とか「主体」とか己のことを呼んだことはなく、
世界自体が己の有り様に困惑してゐるこの現在といふ時の中で、
過去と未来は反転に反転を繰り返し、
既に未来と過去は渾沌としてゐるのが
世界の自同律の本源であり、
唯、現在のみにおいて因果律は辛うじて成り立つのである。
――何、主体と客体の問題は?
と。これこそ笑止千万。
何故なら、そもそも主体と客体の腑分けの仕方が間違ひの元であり、
世界はそんなに単純に出来てゐないのだ。
また、主体絶対主義のやうな主体と客体の位置付けが間違ひであり、
主体は羸弱な存在でしかなく、
此の世界に毅然として屹立するが如くに主体は組成されてゐないのだ。
主体にとって何よりも先立つのは感情であり、
それは意識とか認識とか思考とか考へとかでは決してない。
つまり、デカルトは間違ってゐるに違ひなく、
デカルトに対して否と言へない現代人は、
既に思索において過去の哲人の足下にも及ばず、
cogito,ergo sumに対して
平伏するのみのその面従腹背の様は、
既に世界によって見破られてゐて、
何とも無様で、そして哀れなのである。
「先験的」に世界も己に対して疑念を抱いてゐて
それ故に時は流れ、世界においてすら自己同一は決してやって来ないのだ。
況や「私」においてやって来る筈がない。
――嗚呼、哀しき哉、世界を受容することに骨を折る《吾》が、毎夜毎夜、《吾》を欣求しながら彷徨ひ歩くのは、幽霊だと言って嗤ひ飛ばすことは何を隠さう、《吾》に対して無礼でしかないのだ。