無意識といふ言葉は無意識にも実際にあるか如く使用されるが、
果たせる哀、実際にはそんなものはないと思ふ。
意識は全て意識上に浮上してゐて、
意識下に沈下してゐるものは、
沈下してゐるやうに擬態してゐて、
それらはぼんやりしているときに肉体が表現してゐる仕草に
しっかりと刻印されてゐるのだ。
そして、意味が一見全くないやうに見えるそれらの仕草は、
心模様を忠実に表はしてゐるのだ。
――それで何かを語ったつもりか? 無意識は無意識故に無意識といふ意識状態はあるのさ。
――それは詭弁だ。私を籠絡しようとしても無駄だぜ。無意識といふ言葉を全的に肯定して、ある種の神格化に成功するといふことは、止揚の乱用に外ならないのだ。
止揚の乱用か。
或ひはさうかもしれぬが、無意識といふ言葉を見出してしまった以上、
無意識は無意識として神格化、つまり、肯定されるのだ。
このときに私は言葉の目眩ましに遭ひ、
あっといふ間に無意識といふ意識の様相を取り逃がしてゐる。
つまり、無意識は既に解釈されるものとして此の世に存在し始め、
フロイトならずとも無意識といふものの存在を、例へば夢を探求することで
その本質が現はれ出ると現代人の誰もが思ってゐるが、
それには懐疑的な私は、最早夢の神通力を信じてはゐないのだ。
現代で、眠ってゐるときの夢見を語ったところで、
それは既に解釈されるものとして体系化されてゐて、
夢が心像の象徴を忠実に表現してゐるなどと思ひ上がった思考は、危険思想の一つなのだ。
何故って、夢に何かを背負はせることは、自死の如く発想を潰すのだ。
つまり、思考を抹殺してゐることに等しき行為なのだ。
ならば、夢見を語ることはもう已めて、
発想の自在感に溺れよう。
それがフロイト以降の正しき姿勢なのだ。