何事に対しても既に断念する癖が付いてゐる私は、
決して偶然なる事を受け容れる事は不可能なのだ。
偶然に死すなどと言ふ事は断じて受け容れられぬのだ。
何もかもが必然でなければ、私は現実と言ふ荒ぶるものを受け容れられず、
さうであればこそ、私は断念したのだ。
何に断念したのかといふとそれは私といふ存在についてであり、
私が既に存在すると言ふ事は最早偶然ではなく、徹頭徹尾必然なのだ。
例へば偶然性の必然性と言ふ言ひぶりは、何をか況んやなのである。
偶然であることが必然であると言ふ規定の仕方は、
成程、それはその通りだらうが、
現存在の感情としてはそんな言ひぶりでは決して受け容れられぬ。
受け容れられぬから私は断念をしたのだ。
偶然である事はこの人生において
不合理でしかなく、
それを受け容れるには、偶然であることを断念し、
全ての出来事、若しくは現実は必然と看做して
辛くも己の存在を受容するのだ。
さうでなくして、吾はどうして此の不合理極まりない現実を受け容れればいいのか。
「ちぇっ、不合理と言っているではないか」と半畳が飛んで来さうであるが、
不合理である事も含めて私は現実を断念してゐるのだ。
――何を偉さうに!
と私は私に対して自嘲してみるのであるが、
さう自嘲したところで、私は既に私に対して断念してゐるのだ。
断念しなければ、現実を受容出来ぬ私は、
もとはと言へば、執念深く猜疑心の塊でしかったのであるが、
さう言ふ私に対して何処までも幻滅してゆくのみであった私は、
断念する事でやうやっと此の重重しい私の体躯を持ち上げ、
また、重重しい頭を擡げては、その私の有様に対して断念してゐるのだ。
あらゆる事に対して断念することの不合理は、
しかしながら、私に悟りを強要するのであるが、
私はそれを決して受け容れぬのだ。
此の世で達観したところで、
そんなものは高が知れてゐて、
無明に足掻く私と言ふものでしかないと言ふ事に
私と言ふ存在は断念することで、
静謐にあり得るのだ。
さて、存在に対して断念すると言ふ事は
様様なものに対して無関心と言ふ副作用を生む可能性があるのであるが、
それは杞憂と言ふもので、
私はいつ何時(なんどき)も私に対して断念するのだ。
断念できぬものは、きっと哀しい存在に違ひない。
さうとしか思へぬ私は、
当然の事、生に対してもの凄く消極的なのだ。
しかし、私はそれで構はぬと思ってゐる。
我先に積極的に生きられる幸せ者は
私の性に合ふ筈もなく、
私は断念する事で荒ぶる私を納得させてゐるのだ。
それを理性的と呼ぶには余りにも消極的な存在の有様は
最早変はる事なく、死すまで続けるつもりだ。
しかし、此の矛盾した私の有様は、
へっ、嗤ふしかない程に下らぬ私の主張は、
支離滅裂な故に私を私たらしめるのだ。
断念すると言ひながら
此の現実を不合理と嘆く私の此の矛盾は、
矛盾として受け容れるべくこれまた断念してゐる証左でしかないのだ。