朝
何にそんなに囚はれてゐるかと問へば、返ってくる自問自答の声は、
――……。
と黙したままなのだ。
何に対しても不満はない筈なのだが、
己の存在の居心地の悪さといったらありゃしないのだ。
こんな凡庸な、余りに凡庸な不快に対して
やり場がないのだ。
何に対してもこの憤懣は鬱勃と吾が心に沸き立ち
存在すればするほどに吾は憤怒の形相を纏ひ始めるに違ひない。
――シシュポスに対しても同じことが言へるかね?
――シシュポスこそが最も安寧の中にある快感を味はひ尽くしてゐる筈なのだ。
――どうして?
――何故って、シシュポスはすべきことがしっかと定められてゐるからね。それは労役としては辛いかもしれぬが、心は晴れやかに違ひないのだ。労役が課された存在といふものは、何であれ、心は軽やかにあり得る筈なのだ。
――それって、皮肉かね?
――いや、皮肉を言ふほどに私は弁が立たぬ。
ならば、労役に付くことが、余計なことを考える暇を与へず、
吾が吾に対して憤懣を抱くことはなくなるのか?
朝日の闡明する輝きに対して吾が心の濃霧に蔽はれた様は、
くらい未来を予兆してゐるか、ふっ。