お前は無造作に俺の前に対座して、
徐にかう問いかけた。


――では、お前は何処にゐる? まさか、俺の目の前に対座してゐるなんて思っちゃゐないだらうな。


その問ひに窮する俺は、しかし、確かにお前を前にして対座してしてゐたのだ。
へっ、これが白昼夢であっても構はぬ。
お前にさうしてかう問ふのだ。


――仮令、お前が幻視のものであったとしても、おれにとってはそんなことはどうでもいいのだ。唯、お前が俺の前に対座するその様に、俺はお前の覚悟を確かめてゐるのだ。


と、さう独りごちた俺は、端から俺の眼前に何ものも対座したものなんてゐやしないことなど百も承知で、それでも空虚に問はざるを得ぬのだ。


――お前は、先づ、どこからやって来た?
――そんなことお前の知ったっちゃない!
――へっ、己の出自が元元解らぬのだらう? 教へてやるよ、お前は俺の五蘊場からやってきたのさ。
――五蘊場?
――さう。五蘊場は頭蓋内の闇が脳という構造をした場のことだ。
――何を勿体付けてゐる? 五蘊場など言ひ換へるまでもなく、頭蓋内、若しくは脳でいいぢゃないか。
――何ね。俺は死後も頭蓋内の闇に念が宿ってゐると信じてゐるのさ。
――馬鹿な! それでは地獄を信ずるのかね?
――勿論だらう。地獄でこそ、自意識は卒倒することすら禁じられ、絶えず己であることを自覚させる責め苦を味ははなくてはならないのだ。地獄では責め苦の苦痛を感じなくなることは禁じられ、未来永劫、目覚めた状態であることを強ひられるのさ。さて、地獄行きが決まってゐるやうな俺は、今から、自意識が、つまり、念が地獄の責め苦を未来永劫味はふそれを、楽しみに待ってゐるのだ。
――お前は本物の白痴だな。
――常在地獄。此の世もまた地獄なのさ。
――何故に、お前はMasochist(マゾヒスト)の如く己を虐め抜かなければならぬのだ。
――何、簡単なことよ。俺から邪念を追ひ出したいのだ。
――純粋培養になりたいといふこと?
――Innocent(イノセント)が偽善となったこの状態を破壊したいのさ。
――純真は偽善かね?
――嗚呼、純真は己に興味を引くやうにと装ふ悪者の常套手段さ。尤も、此の世は純真なものを毛嫌ひしてゐるぢゃないか。
――本当にさう思ふのかね? 例えば子犬は純真なものとして殆どの人に愛されるぜ。
――現存在が子犬になれるかね? そんな無意味なことを言ってみたところで、何にも語っちゃゐないぜ。唯、はっきりとしてゐるのは、純真な現存在は疎んじられるのさ。何故って、純真は鏡として吾に不純な己を見させてしまふのさ。


吾は何を思ふのか。
赤赤とした満月が地平線からゆっくりと上り出した今、
のたりと動く満月を凝視するために雁首を擡げた俺は、
そこに純真を見たのさ。だから、どうしたと言はれれば、
答へに窮するが、しかし、時間は確かに見えたんだ。


――例へばどのやうに?
――万物流転さ。
――それで?
――それだけさ。
――万物流転なんぞ、大昔に既に言はれていたことだぜ。
――それがやっと解ったのさ。


何と理解力の無い己よ。
俺は、その愚鈍な俺の重重しい意識を持ち上げるやうにして、その場を立ち去り、
さうして、胸奥でかう呟くのが精一杯だったのだ。


――俺は俺か?
積 緋露雪

物書き。

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積 緋露雪

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