ライブ殺人といふ広告
誰もがそれに釘付けなのだ。
死ほど心を紊乱し、打ちのめすものはなく、
打擲して心に刻み込まれるライブ殺人の数々は、テロリスト達の絶好の広告でしかないのだ。
そんなことは人類史の黎明期においても既に明白だった筈で、
今更強調することでもないが、
ライブ殺人の光景の阿鼻叫喚の地獄絵図は、
何よりも強烈な広告であり、
それ以上に恐怖を植ゑ付けるにはこれ程効果的で低予算な広告はありはしないのだ。
ライブ殺人広告の犠牲になった人人はしかし、全く浮かばれず、
一命を賭しての価値はないのであるが、
しかし、テロルには誰もが巻き込まれる危険があり、
誰もがライブ殺人広告の一欠片でしかないこの状況は、
世の紊乱を望んでゐるテロリストの思ふ壺で、
現在の勝利者はテロルなのかも知れないのだ。
民主主義はテロルの前では無力であり、
平伏すのみなのだ。
こんなことは既に何遍も人類史の中で繰り返してきた人類は、
再び同じことを繰り返し、
テロルの恐怖で人心を操る快感に酔ひ痴れるものたちが、
その広告の絶大な効果にかっかっかっと哄笑してゐるに違ひないのだ。
ならば、テロリストの剿滅をとなるのであるが、
それは悉く失敗に終はる。
何故って、テロリストにとってはライブ殺人は効果絶大な広告であり、
それは自らの死においても全くその道理が当て嵌まり、
テロリストたちは己の死も広告として活用するのだ。
死が死を呼ぶこの戦況の中、
テロルは次次と世界各地で起き、
最早誰が勝利するとかはどうでもよく、
テロルが飛び火すれば、
テロリストにとってはライブ殺人広告は効果があったといふことなのだ。
再び、文明は溶け出すのであらうか。
ならば、現存在には、いつでも死ねる準備をしておくことを強要し、
日一日生き延びたことに感謝する新たな、いや、嘗てあった思想が復古するに違ひない。
さあ、テロルをも呑み込む思想を構築せねば、
現代文明はテロルに焼尽されるのみなのだ。
切羽詰まった存在ほど、侮ってはならぬのだ。
テロルとは、さういふ人たちの思想の結晶なのだ。
その思想を凌駕する思想が構築できなければ、万人はテロルに呑み込まれるのみ。
これは再び、恐怖が統べる王国の誕生なのだ。