何処からか、
――もういいかい。
という鬼ごっこをして鬼になった子どもの声が聞こえてくる。
おれは、
――ふん。
と、その幻聴を嗤ふのであるが、
しかし、本当は気になって仕方がないおれがゐるのもまた事実なのだ。
その幻聴はしかし誰に向かって、
――もういいかい。
といっていると言ふのか。
――ちぇっ、おれに決まってゐる。
と、この猿芝居に腹が立たないこともないのであるが、
おれは絶えず、おれを試しておかなければ、ちぇっ、単刀直入にいふと、おれはおれが嫌いなのだ。
しかし、おれはそれでいいと思ってゐる。
といふよりも自分のことが好きな人間を全く信用してゐないのだ。
自虐的なことが存在の前提、つまり、先験的に付与されたことで、
自らを責め苦に遭はせない存在など、
さっさと滅んでしまへばいいのだ。
さうすれば、ちっとは住みやすい世界が創出出来るかも知れぬが、
自虐的な存在で埋め尽くされた世界は、
しかし、現在ある世界とちっとも代はっちゃいないとも思ふ。
世界とはきっとそんなものぢゃないかと世界を見下してゐるおれは、
世界に反抗しながら、
おれの憤懣をぶつけてゐるに過ぎぬのであるが、
それは単なる八つ当たりに過ぎず、
世界とは、そんな諸諸のものを受け容れる度量があるのだが、
おれと来たなら、おれすら受け容れられぬ狭量なおれにまたおれは腹を立てて、
パイプ煙草を吹かすので精一杯なのだ。
頭を冷やさなければならぬとは思ひつつも、
かっかと憤懣遣る方なしのおれの瞋恚は、
只管におれを自虐するのだ。
さうして味はふカタルシスは、
マゾヒズムと何ら変はりなく、
苦悶が快楽になったおれは、
さうしてやっと世界の中に存在する事の不快を
噛み締め味はへるのだ。
何とも哀しい存在ぢゃないか、このおれといふ存在は。
おれはおれを受け容れられず、
駄駄っ子のやうに世界に甘えるだ。
その甘えてゐる間だけ、おれは此の世に存在出来、
さうしてやがては滅するのだ。
しかし、それがそもそも受け容れられぬおれは、
矛盾しているのだが、不死を望んでは虚しい溜息を吐き、
その矛盾した様に自嘲する。
諸行無常に収斂する此の世の法は
世界の自己憤懣の表はれとも言へるのだ。
――もういいかい。
また、何処かから子どもの声が聞こえる。
おれは
――まあだだよ。
と答へるのだが、
てんで隠れようともしないおれは、
おれといふ餓鬼に見つけられるのを唯待ってゐただけなのかも知れぬ。
さうして何が見つかるといふのかといへば、
闇を怖がって闇の中で蹲ってゐるこのおれに違ひないのだ。