何時ものやうに疲労困憊すると
俺の脳といふ構造をした頭蓋内という闇たる五蘊場の髄ががんがんと痛むのだ。
それは、おれに生涯に亙って課された業苦に違ひなく、
おれが此の世に存在することにを実感するにらは良い機会なのだ。
それは私の五蘊場がぐりぐりと捻じ曲げ上げられ、
五蘊場が少しだけ、現実とずれることによるおれの悲鳴なのだ。
何時も、現在にあることを強要される現存在は、
ちょっぴりその現在とずれると
心身は彼方此方で悲鳴を上げ、堪へ難い痛打として現在にある現存在には感じられる。
それがおれの場合は、五蘊場の髄のがんがんとした痛みで、
その痛みを持って、おれは現在にあることを強要されることに疲れてゐることを認識するのだ。
その疲れ方は途轍もなく酷いもので、
現在にあるおれには、
その痛みなくしては一時も現在を認識できぬほどにおれの感覚は疲弊してゐる。


何をして誰もが此の世に存在するといふ根拠にしているのかはいざ知らず、
おれにとってはこの五蘊場の髄が悲鳴を上げるこの頭痛が唯一の存在根拠なのかも知れぬ。


この頭痛は定期的なにやってきては、おれをのたうち回すのであるが、
それが既に快感に変じてゐるおれにとって、
五蘊場の髄ががんがんと痛む現象は、
おれが蜃気楼でないことの証明であり、
おれが実在するものとして感じ入る唯一のSignなのだ。


象徴としてのおれはこの五蘊場の頭痛であり、
この不快感こそおれの存在根拠なのだ。
不快を以てして此の世に存在する根拠とした埴谷雄高は間違ってはゐなかったが、
その畢生の書『死靈』は、敢へて言えば失敗してゐて、
それでも一生かけて書き継がれた『死靈』は、
此の世に或る一人の現存在が確かに存在したことの証明であり、
その論が間違ってゐたとして
誰に害があると言ふのか。


そして、おれのこの頭痛は
おれが縋り付くことで快楽に変はり、
頭痛の間だけ、 おれの心は静穏なのだ。


この平和なおれの在り方は、
頭痛が齎す快楽であり、
何ものもこの平穏なおれの在り方を脅かす存在は
頭痛がしている時間の間だけはないのだ。
この無防備なおれにとっての平穏な時間は、
おれを疲弊から救ふ端緒であり、
さうして、おれは今日もまた生き延びられるのだ。


さあ、今こそ、おれはおれであることを満喫できる時間であり、
存分にこの五蘊場の髄ががんがんと痛む快楽を堪能するのだ。
積 緋露雪

物書き。

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積 緋露雪

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