Ivan Linsを聴いてゐたその時に大量殺戮は起きてゐた
時に哀愁すらをも軽みに変えて、何かを叫ぶでもないそんな音楽を聴いてゐたその時に
二十人にならんとする数の人が惨殺されるといふ大量殺戮事件は起きてゐた。
おれは、Ivan Linsの音楽に心地よく酔い痴れてゐるときに
既に地獄絵図の惨劇は起きてゐて、その犯行に及んだ男の供述によれば、
「此の世から障害者が消えればいい」といふやうな趣旨の発言をしてゐるやうで、
それは、つまり、
――あなたが死にたいだけでしょう。それにとってつけたやうな理由付けをするのは卑怯だ。へっ、それ以前に自殺出来ないから他者を殺して死刑にならうとするその性根がそもそも腐ってゐるのだ。死にたい奴は徹頭徹尾独りで死を完結するべきなのだ。
と、そんな言葉が口をついて出てしまうくらゐにおれは絶望の淵にゐる。
現代人は何処でそんな甘えの構造を死に対して行ふやうになってしまったのだらうか。
死にたい奴は独りで死ねばいい。
それが出来ないのであれば、徹底して生きるのが此の世の道理だらうが、
と、そんな瞋恚の言葉が脳といふ構造をした闇たる頭蓋骨内の五蘊場を駆け巡るのであるが、
他者を巻き込まずにはゐられぬ死に方は、
悪魔ですらしないものだ。
人間のみが無辜の人を理由もなしに殺すといふそんな事態に遭遇したときの無力感は、
誰しもが抱く事に違ひなく、
死にたければ、徹頭徹尾独りで死ね、といふ瞋恚に駆られるおれは、
だだ無意味に殺されてしまった人たちに対して祈ることしか出来ぬのだ。
かうしてゐるときもIvan Linsの軽やかにしてブラジルのボサ・ノヴァの延長線上にある
その軽やかさに愛惜が響く、音楽を聴きながら、
この日に突然死んでしまった人達に対して
般若心経を唱へるしかないのだ。
般若心経はIvan Linsの音楽ととっても親和性があり、
それはブラジル人に必ず備わってゐるサウダージといふ哀感が
般若心経と何とも奇妙に調和して、
互ひに響き合ふのだ。
そもそも死にたい奴は独りで死ね。
これが此の世の最低の礼儀だらう。