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籠もる人

そのものは独りであることに耽溺し、
吾といふ玩具を見つけてしまった。
そのものにとって吾は弄ぶもであって、
自己相似、つまり、Fractal(フラクタル)なものとは全く予想出来ず、
そのものにとって吾は吾と分離した何かなのであった。
この矛盾がをかしくて仕方なかったのか。


そして、そのものは、終ぞ
――おれ。
と言ふことは憚られ、また、一生言ふ事はなかった。


では、そのものが自己を指して語るとき、
――あれ。
として語り出す。
それは当然のことで、
吾とはそのものにとって玩具以上の物にならず、
変態を続けるその吾はそのものにとって飽きることはなく、
それ以上に耽溺させるのだ。


独り吾に籠もるそのものは、
始まりも終はりもないその吾の出自と最期を
想像することは全く出来なかったのである。
つまり、吾とは不死なるもので、
そのものにとって「あれ」と分離した「おれ」は
「あれ」が死んでも「おれ」は生き残るものとしか思へなかった。


不老不死といふ儚い夢を見ることで、そのものは生き生きとし、
不老不死は「あれ」の出来事として思ひ込む。
さう錯覚することで、そのものは吾を玩具に出来たのだ。


そして、その吾はそのものにとって粘土の如くあり、
手で握り潰しては成形すると言ふ事を繰り返し、
吾は、そのものにとってのお望み通りの物になる筈であったのだが、
終生、吾はそのものにとって理想の形に成形されることはなかったのである。
果たして、そのものにとって理想はあったのか、不明であるが、
ただ、そのものは粘土の如き吾を捏ねくり回しては、
陶器の如く、その形を内部の火炎に晒しながら、
堅固な吾を作のだが、
それは一度もそのものの予想した物になることはなく、
そのものはせっかく作った陶器の如き吾を地に叩き付けて割るのであった。


そのものは終生、解り得なかったのか。
内部の火炎に晒して、陶器の如き吾を内部の窯で焼くことには
自己の意思では制御出来ぬことを。
それが「自然」の発露であることを。

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