果たして時は失せるものなのか
果たして絶えず現在といふ時を失って、
全てが過去のものへと変節するといふ先入見から脱出できるのであらうか。
さう、過ぎしき過去といふ時間認識は、明らかに間違ってゐる。
過去との連続性を保つ事で、現存在は、現在に佇立でき、
現在の中でも現存在が回想するといふ行為を行ふ事で
やっと現存在は、現在に屹立できるであって、
そのやうに思考する現存在は、未来に対しての準備をもしてゐるのだ。
だって、をかしいぢゃないか。
現存在は、過去を振り返ることも可能であれば、未来も予想することも可能であり、
とはいへ、その精度は不確かなだけなのだ。
例へば精度が寸分違はぬといふといふ場合、
現存在はもう、此の世に存在する義理は無く、
未来が全きに予想通りならば、
そんな人生ちっとも面白くありゃしない。
そして、記憶がFuzzy(ファジー)である事が、
つまり、揺らめく事で、
現存在は、現在を楽しんでゐるのであり、
また、苦しんでゐるのである。
喜怒哀楽のない時間なんぞ、果たして現存在は堪へ得るのであらうか。
全てが過去のData(データ)から予測できる未来を手にしたところで、
そんなものは現存在は、忌み嫌ふやうにして毛嫌ひし、
そんな時間の流れは、必ず恨むばかりの筈なのだ。
さて、時は失はれるものなのであらうか。
積年といふ言葉があるやうに
時もまた積もる筈で、
既に予測可能な時間なんぞ、これまで一度も存在したことがなく、
一寸先は闇といふ時間の在り方しか今昔を通してありゃしないのさ。
――ならば、Supercomputer(スーパーコンピュータ)によるSimulation(シミュレーション)は何を意味する?
それは唯の思考の短縮なのさ。
――思考の短縮?
さう、手計算で行へば何万年もかかるものがSupercomputerでは2~3時間で計算可能なのだ。此の思考の短縮が可能になった事で、例えば気象の予測の精度が上がった。
――だから?
だから、人類はSupercomputerや人工知能の深化で、「人間らしい」日常を送ることができるのだ。
――へっ、人間らしい日常? それって何かね?
と、ここで言葉に詰まったおれは、現在起きてゐる現象が、積年の経験則が全く通用しないParadigm(パラダイム)変換の真っ只中にゐる事を認めぬ訳には行かなかったのだ。
Supercomputerが、人工知能が深化すればするほど、
現存在の一寸先は闇状態が更にくっきりと浮き彫りになるか。