例へば意識といふものを氷山の如きものとして喩へるのは、
完全に間違ってゐる筈だ。
氷山の水面の上に出てゐる二割ほどのものが意識で、
水面下にある八割ほどのものが無意識といふ喩へは、
完全には破綻してゐるのだ。
何故って、意識に意識も無意識もなく、意識は全てが意識が覚醒してゐる状態であって
無意識と呼ぶものは、逃げ口上に過ぎぬのだ。
無意識と呼ばれるものは、唯、 意識がその存在を見逃してゐるだけの
脳内で、若しくは五蘊場で発火現象をしてをり、
それはひょんなことから意識がその存在に気付くのは時間の問題に過ぎぬのだ。


五蘊場は多世界解釈論の主戦場だ。
あったかも知れない世界が浮沈するその五蘊場は、
全てが現実と外れてゐて、絶えず現実のGap(ギャップ)を埋めることに忙しくて、
五蘊場に多世界が花開いてゐる事に気付かぬだけなのだ。


これは可能なる世界のことと全く意を異にするもので、
確かに存在する世界なのだ。


――血迷ったか!


と、何処ぞの誰かが半畳を入れる声が聞こえるが、
確かに五蘊場には多世界が存在するのだ。


唯、それは絶えず浮沈してゐて、波間にその存在が見え隠れしてゐるのみなのだ。


それらに気付かぬ己は、全てを無意識におっ被せて多世界を見通せない己に対して
何時も言い訳してゐるに過ぎぬのだ。


全ての多世界はしかしながら、
他の世界に影響を与えてゐて、
干渉し合ひつつも、
連想が連想を生むやうに
五蘊場に存在する世界は世界を生みつつ、
多世界は多世界として存立してゐるのだ。


――へっへっ、 論理破綻!


と、また、半畳を入れられるのであるが、


――それでも構はぬではないかね。


と、こちらが応じると、何処ぞの誰かは知らぬものが、


――多世界を容れられる器として五蘊場は相応しいのかね?


と、もっともらしいことを問ふたのであるが、


おれは宇宙の一つや二つくらゐ容れるのに五蘊場は十分過ぎる大きさで、
五蘊場には多世界を容れるに相応しい器として闇を持ってゐると思ふのだが、
唯、意識が、つまり、自意識は多世界を全て同時に聖徳太子のやうには把握できず、
否、それをせずに現実に多世界を合わせる事に汲汲としてゐるに過ぎぬのだ。


枢軸は絶えず現実であり、多世界は、現実とのGapが大きければ、
意識はその世界を放っておくのであるが、
しかし、その放っておかれた現実とのGapが大き過ぎる世界は
夢魔によって五蘊場に呼び出され、
夢中にあるおれにその現実離れした世界を見せるのである。


それを夢と呼ぶものもゐるが、
夢の世界は多世界が同時に存在し、
次次と世界を生んでゐる証左の一つなのだ。


かう解釈する俺は、天邪鬼には違ひないが、
俺はそれでいいと思ってゐる。
積 緋露雪

物書き。

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積 緋露雪

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