何故なのだらうか。
ホモ・サピエンスは自身がホモ・サピエンスであることに堪へられぬのだ。
完璧ならざることがその因なのか、
それともそいつは自身が没入できるものを結局見出せずに、
己がホモ・サピエンスであることを忘れられる時間がないからなのか。
ホモ・サピエンスはたゆまず考へることを宿命付けられた種であるが、
しかし、そんなことはホモ・サピエンスに限ったことではなく、
此の世の森羅万象は考へることを宿命付けられてはゐる。
考へるという事象は、それ自身、此の世の現実との差異にあることの証左であり、
鬱勃と可能性ばかりが湧き出るといふことは、
此の世が現実とは違った世界が生じる可能性があったことの証左である。
それをこれ見よがしに表白するホモ・サピエンスは、
一体何ものなのか。
漆黒の闇が或る処には必ず鬱勃とあったかも知れぬ世界の可能性は、
路傍の石の如くに転がってゐて、
闇と共振するホモ・サピエンスの思考は、
何もホモ・サピエンスに限った話でなく、
例えば、わんころでも暗闇に共振し、
そこにゐるかも知れぬ敵の気配を追ふのだ。
ゆったりと更けゆく夕刻には
哀しみの末に死んでしまったものの
にたりと嗤ふ其の顔があり、
其の顔には恐怖しかなかった。
そんな無数の顔が闇には無限に蝟集してゐて、
それらが此の世に生まれ出る可能性を探してゐる。
ちらっとでも、それらの顔を見たものは、
もう闇を凝視する外ないのだ。
さうして
――へっへっへっ。
と自嘲しては可能性の世のあるかも知れぬといふ確率の数字に翻弄されながらも、
生れちまった哀しみを圧し殺しながら、
ホモ・サピエンスにまで至る遠い遠い過去へと思考は遡り、
無限にある可能性の一つの帰結が己であることの意味を知ってはゐるが、
しかし、天邪鬼のホモ・サピエンスは
己のことが許せぬのだ。
何が此の吾に罪を被せるのかといへば、
吾以外の何があらうか。
と、さう思ふホモ・サピエンスの奢りが
最も嫌ふところで、
ホモ・サピエンスはホモ・サピエンスであることに堪へられぬのだ。
それは、一所にしか己がゐないといふことの不合理に、
全ては象徴されてゐる。
確率一として此の世にある筈がない吾は、
一所にあることに憤懣やるかたなしなのだ。
また、その不合理の裂け目が存在することにおいてのみ、
吾は吾である確率を堪へ得るのであるが、
その裂け目を弥縫して封じてしまふホモ・サピエンスの存在の仕方は、
美しくない。
夕闇が蔽ふ今、
ホモ・サピエンスとして此の世に屹立するおれは、
ばっくりと開いたその裂け目に
感謝こそすれ、恨む筈はないのだが、
おれは、やっぱりおれの裂け目を憎んでゐる。
さうしてほら、ほら、と夕闇が手招きして
おれを闇の中へと誘ふのであるが、
闇に身を投じて、可能性の世界を夢想する虚しさはもう知り尽くしてゐる筈で、
可能性と言へば聞こえはいいが、それは詰まるところ、雑念でしかないことに
思ひ至ったてゐるおれは、まだまだだなあと、嗤って見せては、
夢が既にその神通力を失った現在を振り返り
頭蓋内の闇を攪拌するやうにして、
おれはおれを捨つる哀しさは知ってゐて、
だからおれはおれを捨つるのだ。