おれと言ふことに途轍もない屈辱を感ずるおれは、
もう手遅れに違ひない。
それを仮に乖離性自己同一障害と名付ければ、
この病はキルケゴール曰く処の「死に至る病」の変種に過ぎぬのかも知れぬ。
乖離性自己同一障害は果てることを知らぬ絶望におれを追ひ込み、
さうして死へと一歩一歩近付いてゆく。
もう、乖離性自己同一障害に陥ると、
その蟻地獄からは何ものも遁れられぬのだ。
だからといっておれはおれを已められず、
違和ばかりが募るおれをして生き長らへるおれは、
何時如何なる時もおれに対して猜疑心の塊と化すのだ。
近未来において、脳を丸ごと入れ替へ可能な時代が来たとして、
此の乖離性自己同一障害は治る見込みはないのだ。
これは屈辱しか齎らさぬが、
仮令、脳を入れ替へたところで、
その時はおれは「他人」になり、
最早乖離性自己同一障害の範疇から遁れるのだ。
意識が連続性を失ふ非連続的なものならば、
おれは少しは慰みを感じられるかも知れぬが、
意識は此の乖離性自己同一障害のおれにとっても
記憶が付随する形で自己同一を絶えず迫るのだ。
これが一番辛いのかも知れぬ。
記憶によって意識が連続的であると言ふその現象に、
おれは何時も戸惑ふのであるが、
おれを容れる容器たるおれの軀体は
果たして意識が全能性を欣求するその欲求を満たせるのかと言ふと、
乖離性自己同一障害のおれにとっては、
それは望むべくもなく、
意識は忌避すべきものなのだ。
とはいへ、意識を忌避できたとして、
おれがおれであることを認識する悪癖は、
決して治ることはなく、
そのことで自意識は芽生えてしまふのだ。
この堂堂巡りに終止符はなく、
死後も尚、おれはおれであり続ける筈なのだ。
それは頭蓋内の漆黒の闇が此の世に存在する限り、
その闇の中での発光現象の記憶が闇に刻み込まれてゐて、
闇が此の世に存在する限り、
おれはおれとして続くのだ。
これは何とさもしいことか。