数学が抽象的故に信頼を持ち得ると言ふ誤謬を
もう哲学者を名乗る以上は哲学者は気が付かなければならぬ。
何でも数学に還元する悪癖は、
哲学者によく見られる誤謬の一つなのだが、
抽象的でありながらとっても信頼できる典拠の一つとして
数学に全的に寄りかかる哲学的言説は殆どが誤謬であることにもっと敏感であるべきなのだ。
数学も煎じ詰めれば、世界解釈の一つの方法でしかなく、
数学的世界解釈が、思考の指針になり得るなどと言ふ傲慢は
世界に敷設された陥穽の一つでしかないのだ。
論理的なる言説を保証するのに数学が適してゐるといふこともまた、
哲学者の心に魔が差したとしか言ひやうがなく、
それ程に数学は魅力的なのだが、
しかし、数学は唯、世界をなぞってゐるだけに過ぎず、
新=世界を予感させることは皆無なのだ。
現=世界の解釈に世界をなぞるしかない数学に依拠する暴挙は、
堂堂巡りを論理形式の基礎としなければ、
その哲学的言説は誤謬の外なく、
また、数学に依拠をする哲学的言説は
堂堂巡りでなければ、それは虚偽的なる虚構としか言ひやうがないのだ。
哲学はお伽噺ではないだらう。
ならば、例へば、ドゥルーズの『反復と差異』は、
その微分を用ゐた数学的解釈が味噌なのだが、
しかし、それはとんでもない誤謬の根源で、
数学的な反復と差異で論理的な反復と差異を語るのは語るに落ちるといふものでしかなく、
数学的なる反復と差異はそれは永劫をも射程に入れたものなのであるが、
それは表記可能な”現象”若しくは”状態”であり、
しかしながら諸行無常といふ此の世の本質は全く無視されてゐるのだ。
つまり、哲学に数学的な言説を用ゐるのは、
此の世の原理を捻じ曲げて、若しくは無視することを意味し、
それが抽象的ならば尚のこと、
此の世の原理を無視する誤謬の哲学なのだ。
そんな単純な話でない、と言ふ半畳が此処で入ると思はれるが、
ドゥルーズは敢へて数学を誤謬して用ゐてゐて、
その”ずらし”に煙を撒かれる人は、
幸せな人に違ひないのだ。
数学は魅力的だが、その魅力に溺れる哲学者は、
Rail(レール)に敷かれた筋道を歩いてゐるのみで、
其処に独創はない。
哲学は、数学よりも先んじてゐる筈で、
数学が哲学よりも先んじてゐる世界認識は、
どの道、終着点が見えてゐて、
残るは解釈のみでしかない。
それにしても、数学は今や神話へと昇華してしまったのだらうか。
神をも恐れぬ数学がお通りだ、と
其処に智が蝟集してゐるといふのか。
造化を紐解くには象徴記号と数字の結晶ではなく、徹頭徹尾言葉である筈で、
それ故に”初めにLogos(ロゴス)ありき”な筈に違ひないのだ。