おれがおれであることを”連続”したものとして認識するおれは、
決定的に何かが欠落してゐると思へ。
それが此の世に対するおれの最高のもてなしなのだ。
おれが連続してゐるなんぞまやかしに過ぎず、
記憶といふ過去世の存在が辛うじて保たれてゐることで、
おれがおれであると無理矢理おれの悟性がおれをでっち上げてゐるこの現状は、
誤謬と思った方がいい。
そもそもおれと言ふ存在は既に解体されて、
その”死体”を晒してゐるぢゃないか。
主体の死屍累累の山は、
おれの過去世に堆く積まれて、
あったかも知れぬ主体の骸にその悍ましき怨念が宿ってゐる。
さて、時間は時間において衰滅するものなのか。
ならば、時間は非連続ではないのか。
かう問ふたところで時間の無駄なのかも知れぬが、
しかし、この問ひは非常に重要で、
時間が非連続なものであるならば、
認識論はその根底から崩れ去り、
そもそもおれが連続である根拠を喪ふ。
時間が時間において衰滅するならば、
それもまた乙なもので、
此の世が永続的でないことの証左が示され、
苦は少しは和らぐ筈だ。
諸行無常であることで、
救はれる主体と言ふ存在形式は、
全てが必ず衰滅するべきものであるといふことで
その存在の有様はようやっと赦されるのだ。
その時、時間の連続性が担保されなければ、
存在の有様は一変する筈だ。
さうであって初めて
おれは生き生きと此の世で闊歩できるのだ。
びよーんと引き延ばされた時間に
思考が何回回転できるかで、
仮に主体の生存の秘訣が隠されてゐるとして、
回転が時間の本質にも関係してゐると無理矢理看做せば、
時間はその場合必ず非連続であり、
それが自然な見方だと思ふのだが、
実際、時間がびよーんと引き延ばされたかのやうに感じることはあって、
その時、過去の記憶が走馬燈の如く甦るSlow motion(スローモーション)の時の流れが現前するのだ。
時間は伸縮自在であることは経験から誰もが知るところであるが、
しかし、それが連続の根拠とはならぬのだ。
むしろ、時間もまた、非連続であることの方が”自然”で、
例へば生物が絶滅することが自明の理ならば、
時間もまた、絶滅し、
さうして遠い記憶は失はてゆくのだ。
さて、時間が時間において衰滅するならば、
時間もまた非連続である可能性が高いと思はぬかね。