粘性や摩擦により状態が漸減することで
此の世はまともに機能することが此の世の摂理である。
漸減せずに慣性の法則が純粋に成立する世界は滅茶苦茶な世界であって、
何事も漸減しなければ、それは即破滅なのだ。
それを善としないのであるならば、
ゆっくりと命が死へ向かって漸減するのを俟つ迄もなく、
今直ぐに死んでしまへ。
それがお前の美学ならばそれもまた善し。
だが、大抵の存在は此のゆっくりと漸減し変容する存在に
時には我慢して折り合ひを付けてゐるものなのだ。
さうしなければ、存在が存続しないことを身を以て知ってゐるので、
齢を重ねるごとに命が磨り減り漸減してゆく事といふ現実を吾は受容するものなのだ。
さうして時時刻刻と存在の余命を削りながら、
存続することを選ぶ存在は偏に慣性の法則が純粋な意味で成立しない此の世の摂理を、
つまり、諸行無常に身を任せ、即ち他力本願のものとして、
不本意ながらも存在する事に恥じ入りつつも、
明日よも知れぬ吾が命が今日も存続した事に対して
一日の終はりには必ず胸を撫で下ろして、
私の力では何ともし難い他力を拝するものなのだ。
ふむ。何処ぞで鐘が鳴ってゐる。
ゆらりと揺れる此の身の行く末に対する祝福の鐘の音なのか。
ゆやーんとなるその鐘の音は、
それにしては寂し過ぎる。
へっ、もともと此の身の存在は寂しいものである事は百も承知とはいへ、
鐘の音こそが漸減するものの象徴ではないのか。
ゆっくりとしじまへと変容する鐘の音は、
消えゆく美学を表はしてゐる。
存在もまた、鐘の音の如く
最期には存在の残滓すら残さずに
無へと貫徹するものなのか。
ゆやーん。
漸減する鐘の音に吾が存在を重ねたところで、
それは結局は虚しいものであり、
ちぇっ、そんな事は結局忌忌しい感情を吾が身に残して
存在に対する憤懣となって吾が存在を自虐するだけなのだ。
Masochism(マゾヒスティック)な輩はそれはそれで悦楽を得られるかも知れぬが、
大抵の存在は、それに我慢がならぬのだ。
ゆやーん。
ええい、五月蠅い。
ちぇっ、鐘の音に対して八つ当たりをしたところで、
それもまた虚しいだけか。
いくつもの周波数が綯ひ交ぜになり、
心地よい音となって
ゆやーんと響く鐘の音は、
遠く遠くへと響いて行くのだ。
ごーん。