ぎっくり腰か、
此処のところ腰痛に難儀してゐる。
それとも内臓に病気でもあるのか、
この腰痛はどうやら長く尾を引きさうだ。
しかし、動くことにさへ難儀してゐるこの状態を楽しんでゐるおれがゐるのだ。
不自由な自由を、不自由故に自由な状態を意識せざるを得ぬこの状態が何とも愛おしいのだ。
存在は不自由に置かれずば、自由の何たるかをちっとも考へぬ怠け者で、
たぶん、何万年も動けぬ事を強ひられる巌こそ、
むしろ自由の何たるかを知ってゐる筈なのだ。
さう考へると、おれといふのは何と恵まれてゐる存在なのだらうか。
例へば、眼前に一つの石ころがあるとする。
さて、仮におれの命が無限といふ寿命を与へられてゐるとすれば、
眼前の石ころはやがて風塵へと変容することは何となく予想が付くが、
さて、存在の変容はそれでは済まず、
風塵はやがて此の地球の消滅時、つまり、太陽が爆発するときに
強烈な高温に晒され、再び巨岩の一部に組み込まれるか、
または、元素が強烈なEnergyで変容を強ひられた別の重い元素に変はるかに違ひないのだ。
さうして輪廻しながら、存在はその本質すら変へながら、
これ以上自らでは支へられぬ不安定な物質に変容するまで、
重い元素へと変容をしつつ、そして、再びへ崩壊してゆくものなのだ。
つまり、無限の長さを一つの定規とすれば、
あらゆるものは何らかへと変容させられ、
其処に自由は決してあり得ぬものなのだ。
ならば自由は何処にあるのかと言へば、
それは内部にしかないのだ。
内的自由といふ言葉はもう擦り切れるくらゐ遣ひ古された言葉の一つだが、
皮袋で囲まれたこの内部といふ影、つまり、闇に沈んだ内的な場でのみ、
時空を飛び越えながら自在に思考を巡らせることが可能で、
これは森羅万象いづれも変はらずに持ち得てゐる《自由》の一つの形なのだ。
へっ、内的自由で妄想を飛躍させたところで、
現実は何ら変はらぬぜ、
と半畳を入れるおれは、
だから、と嘯くのだ。
しかし、とおれは呟き、
――しかし、内的自由での変容がなければ、つまり、内的自由での超越論的変容なくしては現実も変へられぬぢゃないか。
――超越論的変容?
――つまり、ご破算と言ふことさ。
腰痛にヒイヒイと言ひながらつらつらとこんな馬鹿らしい自己問答に勤しむおれは、
なんと自由なことか。