奇妙な皺を刻んだ其の手は、
老人の手のやうであったが、
いきなりおれの胸ぐらを掴んではあらぬ方へと抛り投げた。
おれは、あっ、といふ声すら出せぬままに、
その魔の手が投げつけた場へと投げ捨てられ、
暫くは狼狽してゐた。
やうやく人心地がつくとゆっくりと辺りを見渡し、
此処は何処なのかと探りを入れるのであるが、
ちっとも見当が付かぬところなのであった。
だからといって、何か異形の者がゐるかと言ふとそんなことはなく、
唯、広大無辺な時空間ががらんと存在するのみで、
おれは独り広大無辺なるものに対して対峙する使命を課されたのであった。
それは途轍もなく寂しいもので、
誰もゐない時空間と言ふものは、
ぼんやりとしてゐるとそのまま時間のみがあっといふ間に過ぎゆくところで、
魔の手はおれを何のためにこんなところに抛り出したのか、
と思ひを馳せてはみるのであるが、
それを問ふたところで、何か意味あることになるのかと言ふと、
否、としか言いやうがないのであった。
そもそもおれが魔の手と呼んだその皺が深く刻まれた手は一体何者の手であったのだらうか。
――翁だよ。
といふ声が何処ともなく聞こえてきたのであるが、
その翁とは一体全体何ものなのか、
無知なるおれには解らぬのであった。
それでも、もしかすると能のシテの翁なのかとも思はないこともなかったのであったが、
それでは何故、能のシテの翁がおれをこの広大無辺にだだっ広いだけのがらんどうの時空間へと抛り投げたのか、
全く意味不明で、脈絡のない出来事なのであった。
とはいへ、現実はそもそも脈絡がないものが輻輳してゐて、
それを脳と言ふ構造をした頭蓋内の闇たる五蘊場が後付けで意味づけして記憶のより糸にして紡いでゆくのであったが、
それでは記憶が何時も正解かと言ふとそれもまた間違ひで、
記憶といふものは何時も間違ひを犯すものというのが相場なのである。
それでは魔の手は何者の手だったのか。
此処でおれは神と言ふ言葉を思ひ浮かべるのであるが、
殆ど神なんぞ信じてもゐないおれが、神などと言ふ言葉を思ひ浮かべる愚行に、
おれは自嘲混じりの哄笑を挙げるのであった。
――馬鹿が。
何処ぞのものがさうおれに怒鳴りつけると、
おれはびっくりとして首をひょこっと引っ込めて、
亀の如くに振る舞ふのであったが、
其の様が吾ながらあまりにもをかしかったので
おれは
――わっはっはっ。
と哄笑するのであった。
ならば魔の手は何者の手なのか。
それとも蜃気楼だったのか。
そんなことはもうどうでもよく、
おれはすっかりとこの広大無辺なるがらんどうの時空間に馴染んでしまってゐて、
独りであることがもう楽しくてしやうがない状態に高揚してゐたのであった。
何故高揚してゐたのたであらうか。
それは世界がおれにおれであることを強要しないその広大無辺なる時空間の在り方が、
おれを心地よくさせて、酔っ払った如くにおれを高揚させるのであった。
――嗚呼、世界は真はこのやうにあったのではないか。それを現存在の都合がいいやうに世界を改造して返って居心地が悪い世界へと変質させてゐるからではないのか。
――ちぇっ、下らねえ。
と魔の手の持ち主が欠伸をしながら言ひ放ったのであった。