吾が心の奥底に巣くってゐる屈辱と言ふ感情は、
然し乍ら、おれをおれたらしめてゐる情動へと変化し果ててゐて、
屈辱を砂糖黍を囓るやうにしてそれに対して甘い蜜の味を知ってしまったおれは、
最早、己に対する屈辱なくして生きる術を知らぬ生き物へと変態してしまってゐるのでした。
これはどうも皮肉なことにとても居心地がいいもので、
屈辱は既に屈辱といふ汚名を返上してゐるのです。
だからといって、常におれが存在する時に疼く心の痛みはちっとも減らぬのですが、
それも愛嬌と自虐的に納得してゐるおれは、
甘い汁を搾り出すためにおれはおれをぶん殴るのです。
この屈辱感からのみおれの内部から止めどもなく湧いて来る蜜の味は、
蟻があぶら虫から譲り受ける甘い汁にも似て、
おれの生きる糧になって、もうかなりの時間が経ってしまったのでありました。
時に「白痴」と罵られる快感に酔ひ痴れる屈辱の時間こそ、
おれが望む最高の享楽の時間に変はり果ててゐて、
その馬鹿さ加減は言ふに尽くせず、
とはいへ、白痴のみが生きることを許されるのが
此の世の道理と半ば諦めにも似た感慨に逃げ道を見つけましたおれは、
屈辱なくしては一時も生き延びられぬ生き物へと
とっくの昔に変化(へんげ)してしまってゐるのです。
かうして開き直ったおれは、最早怖い物なしの状態なのかも知れぬのですが、
しかし、屈辱を屈辱として感じる時間を持たずば、
窒息するかもしれぬおれは、
ラヴェルの「ボレロ」を聴き乍ら、
渦巻く情動の高鳴りに大いなる屈辱を呼び起こされるのでした。
何を偉さうにとはいへ、ラヴェルの才能に嫉妬するおれは、
情動が渦巻く言説を少しでも書き綴る事が出来たのかと自問するのですが、
おれは今以てラヴェルに匹敵する情動が渦巻く渾沌の世界を
表現出来た例しがないのは確かで、
また、能楽のやうな幽玄なる世界の表現も遠い夢のまた夢に過ぎぬのです。
しかし、夢語りを極度に嫌ふおれは、
現代では既に夢に思想を託す神通力はないと看做してゐますので、
夢を材料に物語られる話こそ反吐が出る代物でしかないのでした。
つまり、夢では簡単に短絡が起きてゐて、
世界が整理整頓されたとても秩序だった世界に成り変はっているから嫌ふのです。
夢では何事も肯定されると言ふのは、つまり、夢が既に世界の一解釈の結晶で、
それを物語られてもこちらとしては面食らふだけで、
その完結してしまっている夢世界におれが入り込める隙などないのです。
真黒き悪夢がありまして、
それを叩き壊すおれがゐるのでした。
さうせずには此の世を語る言葉など見つかる筈もなく
世界に対して失礼極まりないのでした。
真黒き悪夢がありまして、
それを叩き壊すおれがゐるのでした。
さうして叩き壊した悪夢には、
無秩序が蔓延って
渾沌が生れるのでした。
それ見たことかと誰(た)がいふのを耳にし乍ら、
おれは夢を破壊することにある種の快楽を見出すのでした。
然し乍ら夢破壊は自然に反することで、
記憶は夢世界のやうに全的に肯定され得る堅牢な秩序の中にありまして、
それ以外に正気が保てる術はないのでありました。
それは夢が現実世界より簡略された秩序世界であって、
現存在の五蘊場は簡略化、然もなくば抽象化された世界認識しか入れる度量がなく、
渾沌は忌み嫌うべきものに成り下がってゐるのでありました。
真黒き悪夢がありまして、
それを叩き壊すおれがゐるのでした。
さうして叩き壊した悪夢には、
無秩序が蔓延って
渾沌が生れるのでした。