思念の行方
思念は私といふ名のヘドロから鬱勃と湧くメタンガスの気泡であって、
思念は五蘊場で幽かな音を発しながら、
然もなくば幽かな光を発しながら私を呑み込むものなのです。
もしも思念が私を呑み込んでゐないと言へる現存在がゐるとするならば、
それはその現存在が己を知らぬばかりか、己が白痴といふ事を認めてゐる証左でしかないのです。
それといふのも、思念は無辺際に膨脹するもので、
それを成し遂げてゐない現存在は、まだまだ未熟で私を知らぬ赤子にも劣る馬鹿なほどの存在なのです。
それを他人(ひと)は「無垢」と呼ぶのかも知れませんが、
此の世界は無垢であることを存在に許さないのが道理で、
無垢なことはそれたけで悪なのです。
それならば赤子はそもそも無垢ではないかと言ふ半畳が聞こえてきますが、
そんなことはないのであります。
赤子とて此の世界に存在する以上、無垢である筈はなく、
生き延びる戦略として赤子は大人よりも相対的に無垢なだけであって、
赤子の無垢な事は、それはそれは余りにも知略戦略を凝らしたもので
羊水の中に漂ふ悦楽を知ってゐる赤子が無垢な筈がないのであります。
その証左に赤子は泣いて生れてくるではありませんか。
それは羊水での居心地の良さを知り尽くしてゐる赤子だからの事なのであります。
此の世界に生まれ出た赤子は羊水の中よりも此の世界が良いところならば何も泣く必要はないではありませんか。
また、泣くのは肺呼吸を始めたからと言ふのは理屈に合ひません。
肺魚が肺呼吸をするときに泣かないのと同じやうに赤子が此の世に生まれ落ちたその時に肺呼吸をするからといって泣く必要は全くないのであります。
或ひは此の世に生まれ落ちてしまったことに吃驚してしまったとも言へるのですが、
さうなのです。
此の世は吃驚するような魑魅魍魎が跋扈する邪に満ちた世界なのであります。
その魑魅魍魎が跋扈する此の世だからこそ現存在は思念を宇宙の涯まで、
否、宇宙の涯を超えてまで膨脹せずば一時も生き延びられないのであります。
世界に対峙するといふ事はさういふ事なのであって、
邪に満ちた世界に佇立する現存在は、
昼夜を問はず太虚を見上げては、若しくは虚空を見上げては
思念を宇宙の涯へと飛翔させ、
この脳と言ふ構造をした頭蓋内の闇の五蘊場に宇宙を丸ごと呑み込めなければ
世界に押し潰されるのみなのであります。
哀しい哉、現存在は此の世に比べれば塵芥に等しき存在でありますので、
思念で以てこの世界、否、宇宙を丸ごと呑み込まなければならないのであります。
幾世代の現存在がありまして、
此の世は何時も現存在を丸呑みしようと手ぐすね引いて待ってゐるのでありました。
然し乍ら、現存在は、それに対抗するべく、思念で以て此の世を丸呑みするのでありました。
その第一歩が私を思念が丸呑みする事なのでありました。