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独断的なる五蘊場試論その二

命題:此の世は秩序の縁に、つまり、渾沌の縁にある。


証明:例へば思考する時に、その思考は渾沌錯綜するが、しかし、或る二択へと収束する。そして、その二択はどちらも秩序ある埒内のものである。その後、其処で現存在は二択の内一つを選択し、それを足場に思考を更に推し進める宿命にある。つまり、泳ぐと死んでしまう鮪の如く考へること已められぬ現存在は思考を続け、再び、思考は渾沌へと埋没するが、再び思考の行き着く先は二択へと収束する。云云云云。


また、脳細胞をみると軸索の伸びる方向は五蘊場内での秩序と渾沌の境を選んで伸びるに違ひない。さうでなければ、現存在は自由を獲得することは不可能、且つ、理性的であることもまた不可能である。


それは、内的自由を取り上げてみると、内的自由の様相は渾沌そのものを保証せずば、それは内的自由とは言へず、といふよりも、内的自由は渾沌そのものでなければ、それは内的自由とは言へず、渾沌とした「自由」、つまり、悟性が崩壊した思考なり表象なりが脳裡、または、瞼裡に再現前せずば、創造、または発想は保証され得ぬ。


故に脳細胞の軸索は五蘊場で秩序と渾沌の境を伸びるに違ひない。内的自由が渾沌に脚を踏み入れぬとするならば、つまり、思考は全て悟性に準ずるとするといふことで、それは思はぬ、つまり、とんでもない発想が生れる芽を完全に摘んでゐる。


または、思弁的存在論を思考することも不可能で、内的自由の保障は渾沌なくしてはあり得ぬのである。


故に五蘊場が此の世の縮図の典型の一つとすれば、此の世は秩序の縁に、つまり、渾沌の縁にある。


更に五蘊場が此の世の縮図の典型の一つとする証左は、これは逃げ口上かも知れぬが、現存在の存在様式に先験的に組み込まれてゐて、世界認識し得る可能性を秘めてゐる故にのことである。況して世界認識出来ぬ五蘊場ならば、それは現存在の即死を意味し、外部世界に適応できぬ事で現存在は終焉する。


現存在に自由があるとするならば、それは自律的に現存在は存在すると言ふ事であり、それは此の世の秩序に大抵は則ってゐるが、一時、魔が射すやうに現存在は錯乱を起こし、さうであっても此の世は現存在を受け容れ、生かす。つまり、これは世界もまた、秩序と渾沌の境に存在する構造をしてゐる証左に違ひなく、此の世は秩序の縁にあり、つまり、渾沌の縁にある。云云云云。


しかし、この命題はまだ、語りたらぬ。


端的に言へば、此の世が太極ならば、つまり、渦が此の世に存在する限り、此の世は秩序の縁に、つまり、渾沌の縁にある。云云云云。

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