20世紀初頭に自身の患者の死の直前の体重と死後の体重を量った
ボストンの医師、ダンカン・マクドゥーガルといふ先達がゐることに思ひを馳せ、
確かに其処には体重の差異が認められたやうだが、
それが即ち、「心」若しくは「意識」の重さかと言へば、
それは否と言ふ輩が多いに違ひない筈だ。
しかし、本当にさうなのか問ふて見れば、
誰もが口を濁すに違ひない。


生のEnergy(エナジー)はそもそも意識に還元できるものかも知れないが、
意識を全て脳に還元してしまふ風潮には馴染めぬ己がゐるのも確かなのだ。


死は幽玄なるものである。
俺は、死しても尚意識は、または魂はあると信ずるので、
生と死の体重の差異にはさほど興味を抱かぬが、
然し乍ら、生死を分ける差異は厳然と存在する。
だから尚更に死には幽玄なる重さがあるのだ。


瞼を閉ぢると死したものたちが表象となって再現前するが、
その表象に重さがあるに違ひないと思ふおれは、
死して尚おれに念を送るその死者たちに対して畏怖を抱きつつも、
おれは、それに対して快哉を上げるのだ。
此の世は死者で犇めき合ってゐなければ、
ちっとも面白くなく、
死から零れ落ちてしまったものが生者なのだ。
故に生者はやがては元の木阿弥たる死へと還って行くのであるが、
物質の重さは死の重さに等しいに違ひない。
つまり、重力波は死の脈動に違ひなく
ヰリアム・ブレイクの銅版画にあるやうに
聖霊たちが渦巻く時空の様相が此の世の実相なのだ。


死から零れ落ちてしまった生者は、
それ故に懊悩し、生を踏み迷ふのを常としてゐるのだ。
それは死の淵を、つまり、生の淵を歩いてゐるからに外ならず、
生者を秩序と看做すならば、死者は渾沌の謂である。
そのとき時空は壊れやすい秩序、つまり、渾沌の淵にあり、
未来永劫、現在の時空が永続する筈もない。


此の世に物理的なる変化が起きたときに
ドストエフスキイが言ふやうに人神が出現するのかどうかは別としても、
死の幽玄さには変はりがない。


重さは死の現はれの典型なのだ。
つまり、重さがあると言ふことは死を背負ってゐると言ふことなのだ。
骸の重さが死の重さであり、
それ故に生の重さは高が知れてゐるのだ。
積 緋露雪

物書き。

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