そんな私を囲繞する時空間にあっぷあっぷで何故か溺れてゐるやうな感覚に何時も襲はれてゐる錯覚に置かれてゐる私は、私を囲繞する時空間を或ひは呪ってゐるのかも知れぬ。
その時空間ときたら真綿で首を絞めるやうに私をきりきりと締め付ける。そんな時空間に存在するものは、端的に言って私には恐怖でしかないのだ。私を囲繞する時空間と共にそれら森羅万象は
――へっへっへっ。
と私を嗤ひながら重たい重たい重たい十字架を私に背負はせるから始末が悪いのだ。何故に私に重たい重たい重たい十字架を背負はせるのかと言へば、それは私が此の世に存在すると言ふ一言に尽きる。私が此の世に存在するといふことは他とは同時に同じ場所には存在出来ない弧時空に投企されてゐるのであるが、それは目も当てられぬ悲惨な様相で、と言ふのも、弧時空に投企された私といふ何ものにも縋り付けぬ存在は、私の二本の足で直立をし、振り子の原理で歩くのであるが、それはGPS機能によって絶えず確認出来ることで、GPS機能で示された私の居場所には徹頭徹尾私のみがゐて、他物は其処には存在しないのだ。
確かにSmartphone(スマートフォン)などの端末のTouchpanel(タッチパネル)をTap(タップ)することで、私は現実を拡張し現実を上書きする仮想現実を以てして、私の存在を意識する。つまり、私はその能力を拡張されることで、何かこれまで現実のみに対峙してきた私は、例へばSmartphoneの画面に平面で映し出される仮想現実に、私の存在を敢へて嵌め込み、奇妙な、否、これまでになかった存在様式の仕方を強ひられる。
仮令それが3Dの仮想現実だとしても、画面は徹頭徹尾平面であることが、それがIllusion(イリュージョン)の眷属に過ぎぬことを表はしてはゐるが、しかし、3Dの仮想現実に三次元時空間を平面上で認識してしまう脳と言ふ構造をした頭蓋内の闇たる五蘊場は、今の処、その目新しさに目眩み私の存在の唯一無二なことは忘失しつつある。仮想現実は、何ものも《同じ居場所》に存在せしめることを成し遂げてしまふ現実のChaos(カオス)を齎してゐるのだ。これは世界認識のParadigm(パラダイム)変換と言へるのかと問はれれば、さうに違ひないと言へるのかもしれぬが、例へば闇の中でSmartphoneの画面が結構明るく輝くその様は、異様でもあり、また、一方でとてもありふれた現実の風景でもあり、このTouchpanelが此の世に存在するのは最早欠くべからざるものとして現実に組み込まなければ、それは現実を語ったことにはならぬであらう。つまり、携帯端末の登場により、現実は拡張され続け、仮想現実が現実を上書きすることで途轍もなく平面的な時空間が四次元と言はれるこの現実の世界を二次元の世界へと縮退させたのである。
積 緋露雪

物書き。

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