そこで世界を情報化することは、果たして可能なのかといふ疑問が湧いてくるのである。現に情報化されてゐるのだがら可能と肯ふべき筈なのだが、しかし、重要なのは情報化出来ずに世界内に存在する《もの》の有様なのではないだらうか。《もの》が情報化されるのはその位置情報と簡単な何のためにあるのかといふことと現存在による印象の堆積でしかなく、《もの》そのものは決して言葉で語り果せぬ存在である。つまり、仮想現実に入力されてゐる厖大な情報は《もの》の上っ面の情報でしかなく、《もの》そのものを問ふた本来であれば、世界が成り立たせてゐるその本源の情報は仮想現実には皆無と言っていいかもしれぬ。誰の胸にも去来するであらう「私は何《もの》?」といふ問ひを発する以上、それは「世界とは一体何なのか?」といふ問ひを含有してゐるのである。それは、つまり、《もの》とは何なのかといふことに収斂するもので、《もの》を問ふた先達は数多ゐて、有名処ではプラトンのイデア論からカントの「物自体」、ハイデガーの例へば「道具存在」等等挙げれば、切りがないが、《もの》を問ふことは、即ち、己を問ふことなのである。
それでは仮想現実、厖大な情報で溢れてゐる仮想現実に「吾」は吾として存在してゐるのかといへば、決してそんなことはなく、唯単に、「吾」は仮想現実の情報を媒介にしてAccessしてゐるだけで、本音を言へば、「吾」は、仮想現実なんてちっとも信じてをらず、現実が穴凹だらけなのを、携帯端末が現実に開いた穴を塞ぐことで、目を奪はれるのであるが、それはTelevision(テレビ)でも同じことで、「吾」は絶えず現実世界に開いてゐる穴凹に興味津津なのである。そして、穴凹が開いてゐない仮想現実に、つまり、何処も情報で埋め尽くされた仮想現実を現実世界に開いてゐる数多の穴凹にあてがふには打って付けなのである。それは情報が厖大ならば厖大なほどよく、仮想現実を眺めてゐることで、現実からTrip(トリップ)出来るかのやうな幻想を齎す仮想現実は、極論すれば麻薬と同質の《もの》なのである。
積 緋露雪

物書き。

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