そのやうに依存性がある情報は何処まで行かうが《もの》の偶有性を経巡るのみで《もの》の本質へは届かぬのであるが、つまり、仮想現実は《もの》の偶有性のみで成り立ってゐるのであって、其処に《もの》の本質を探すのは本末転倒なのである。ところが、現実問題として《もの》の偶有性ばかりが肥大化する事で、《もの》の本質に漸近的に近付いてゐるのではないかと錯覚する誤謬が罷り通る事態に面食らふどころか、それを全く信じて疑わないのである。その要因が何処にあるのかと言へば、《もの》の偶有性のみで現実に全く困らないからである。しかし、一度、災害が起きると仮想現実は仮想でしかない事を嫌といふ程に思ひ知らされるのである。現実の激変により世界に対する盲目ぶりを突き付けられるた現存在は、其処で初めて仮想現実は現実世界と如何にずれてゐるのかを身に染みて感じるのである。
其処で、《もの》が世界の森羅万象が粒立ち各各自律して存在してゐる事に気付く筈なのであるが、しかし、実際はさうはならず、目の前の現実が巧く呑み込めない現存在は、情報を得ようと、Smartphoneに齧り付くのである。
――へっ、此処でも情報!
さう、災害時こそ情報が何よりも重要なのだ。しかし、情報を頼りに現存在は災害に巻き込まれぬやうにと暴力的な自然の脅威から遁れるべく、只管、情報を得ようと躍起になるのである。その時、得られる情報は現存在の生死を分ける重要なもので、現存在が置かれてゐる事態を把握する事態を把握するには、現存在の五感と本能では、最早、不可能な生き物として、仮想現実にどっぷりと浸かった現存在には、全く己の五感と本能を信じられず、否、信じられないのではなく、唯唯不安でしかなく、その不安は情報といふ偶有性の《もの》を必死に得る事で即効的に解消せずにはゐられぬである。
剥き出しの《もの》に対する接し方を、最早、忘却してしまった現存在は、いつ何時も「情報」なくしては、己の生を決する事すら出来ぬ羸弱な存在として進化する事を已めてしまった存在なのである。ここで、
――情報があった方が生き残る確率がかなり高まるではないか!
と、半畳が入ると思ふが、東日本大震災前、鼠が我が家に潜り込んで来て、何だと思ってゐたならば、あの強烈な大震災である。幸ひにも我が家は潰れることはなかったが、鼠はそれを知ってゐたと思へる。つまり、人間よりも鼠の方が危険を確かに察知してゐたである。皮肉な事に仮想現実が現実世界を上書きしてしまふ日常に慣れ親しめば慣れ親しむ程に現存在は、生物としての生命力は、弱くなるばかりで、近い将来人類は衰滅するのは定めに違ひない。例へば大地震に見舞はれた時、独りで生き残る術を見出せない現存在は、動物としては最早失格なのである。
積 緋露雪

物書き。

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