己の存在を意識するその端緒は
何よりも主体が不快を感じてゐなければならぬ。
つまりは不快は存在に先立つのである。
己が不快であることで、
初めて己は
此の世に存在してしまってゐる業を意識し、
さうして己は現世でしか最早存在出来ぬといふ断念を以てして、
吾は此の世に存在してゐる事を
黙して受け入れる事がやうやっと出来るのだ。
例へば十六夜の月下の吾の影が、
何処かしら退屈に見え始めた時、
その影は、
吾の影である事を不快に感じ、
それ故にその影は己の事を自己認識してゐるに違ひない。
その時の一抹の寂しさと可笑しさは、
名状し難き感情となって押し寄せ、
それはまた、影の側も同じ事で、
月下の影が自律的に蠢くその時、
吾は、
――ぶはっはっはっはっ。
と、哄笑する外ないのだ。
不快が存在に先立つその哀しみを知ってゐるものは、
絶えず吾は吾である事を不快に思ひながら、
吾は吾からの脱皮を試みつつも、
吾は吾に以前にも増してしがみ付くのだ。
その吾と呼ばれるものは肉体に先んずる念であり、
とはいへ、しがみ付いてゐるものは肉体でしかないのであるが。
さうやって二律背反する吾の吾に対する複雑な感情は、
全て不快により始まる。