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考へる事に対して信を置くのは余りに楽観的過ぎるのか

考へるといふ事は存在の果たして最後の砦として相応しいのか。
不意に襲ふ思考の陥穽に落ち込む吾に、
吾は苦笑ひをしては思考に対してすら疑心暗鬼に陥る。
この思考にすら信が置けない不信の悪魔に化してしまった吾。
この吾を抱へてゐるからこそ、吾は吾に対して徹底的に疑ふのだらうか。


パスカルの考へる葦としての人間存在の定義は、
余りに楽観的過ぎるのではないか。
確かに極端な事を言へば、
あらゆる存在は考へるものであるが、
しかし、その思考する事は信たり得るのか。
つまり、例へばデカルトのcogito, ergo sumの「吾思ふ、故に吾あり」は、
余りに楽観的過ぎるのではないか。
かうなると底無しの思考の陥穽に落ち込むのは
火を見るよりも明らかだが、
しかし、吾は悦んでその陥穽に飛び込む。
さうでもしなければ、吾が吾である事に堪へられぬ吾は、
自虐の逆巻く中を、へらへらと力なく嗤って
己を徹底的に攻撃するのだ。
さうして吾を忘れる事で
吾はやっと存在たり得てゐる。・
この惨めなやり方でしか吾は吾たり得ず、
吾を忘失する、または、卒倒する事の中でしか、
吾は吾に信が置けぬ卑屈さに
吾ながら呆れるとはいへ、
さうする事でしか吾が吾である事が保てないのだ。
このどうしやうもないやるせなさは、
気を失ふ事でしか消えぬ。


吾思ふ、故に吾信じぬ。
吾卒倒す、故に吾あり。

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