虚を衝き不意を襲ふそのものは、
真夏のギラつく太陽の陽射しには影に隠れて
じっと身を潜めてその時を待ってゐたのだらう。
私はと言ふとすっかり真夏の暑さにやられて
バテバテの中、
無防備でそのものと対峙しなければならぬのだ。
そのものの矢継ぎ早に問ふ私に対する難儀な質問に
今はまだ答へる気力すらない私は、
それでもそのものに対して礼儀を尽くし回らぬ頭を無理矢理回転させながら、
ぼそぼそと囁く。
――作麼生そもさん!
――説破……
――何故、吾なる存在はそれが吾と看做せるのか!
――それは夢幻の類ひに過ぎない。何故って、吾なる存在が吾と看做せる根拠なんぞそもそもないからね。
――それでは、吾は現の中で、譫妄状態の、または夢遊病者のやうに現実を見失ってゐるといふ事か?
――さう。吾なんぞ夢遊病者と変はりやしない。
――何故、そんなに自信有り気に言へるのかね?
――それはデカルトのcogito, ergo sum.がまだ、吾を捉へるには不十分極まりないからさ。吾の思考にそんなに重きを置いていいのかと問へば、吾なるものは誰もそれを肯ふだけの根拠を持ってゐない。
――根拠を持ってゐない? しかし、思考してゐるのは徒ただならぬ吾ではないのかね?
――さうさ。しかし、だからといってその思考が徹頭徹尾、吾が思考してゐると言えるかね?
――つまり、思考は吾を超越してゐると?
――ああ。思考は吾を超越してゐる。思考してゐる吾は、吾が思ひも寄らぬものを考へつくもので、それが吾が考へたと誰が看做せるだらうか? 殆どのものはその思ひつきは吾を超越してゐて、「神が降りてきた」とか「憑依した」とか言って吾以外のものにその思ひつきの因を結びつける。つまり、思考は軽軽と吾を飛び越えてしまふのだ。
――ならば、吾が吾の根拠がないのにどうして吾は慌てないのか?
――それはね、そもそも吾は吾が嫌ひなもので、吾は吾に殆ど興味がない。
――そんな馬鹿な! 吾は吾の事が知りたくて仕方がない生き物だぜ!
――それは吾を買い被りすぎてゐる。吾に吾を考へる能力はそもそも欠落してゐる。
――欠落してゐる? へっ、今、思考は吾を超越してゐると言ったばかりだぜ! 吾を超越してゐる思考ならば何時しか吾が吾であると言ふ事に対する答へを見出せる希望はある筈だぜ。
――それは楽観的過ぎるね。落胆させて申し訳ないが、吾の制御を超える思考で吾が吾である根拠を見出せるなんて夢物語だよ。言っただらう。吾は夢遊病者と変はりがないと。そんな輩に冷徹な思考が出来るかね? 現実すら見失ってゐる吾にどうして吾が吾である根拠を見出せるのかね? 吾が吾である根拠が見出せた時、多分、宇宙は泡を吹く筈さ。
――何故宇宙は泡を吹くのかね?
――これまで解けないAporiaアポリアを解いてしまったんだから泰然自若の宇宙でも吃驚仰天さ。
――吾が吾である事はAporiaと言ふのかね?
――ああ、Aporiaだ。さう言ふお前が解いてみればいい。解けないから私に質問を浴びせるんだらう? だからAporiaと言ってゐるんだ。
――ちょっ、食へねえ奴だなあ。
などと吾についての疑問を私に打つけてきたのであったが、そのもの自身で解いてみればといった瞬間、そのものはしゅんとなり、不意に姿を消したのである。
積 緋露雪

物書き。

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積 緋露雪

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