所詮、現存在は自然に対して、また、世界に対して
完全なる非対称の関係にあり、
その非力さは目を蔽ふばかりである。
それは天災を被る度に厳然と露はになるのであるが、
日常においてもなんら変はる事なく、
絶対的な専制的な力を持つ自然、若しくは世界に対して
現存在は一見従順に、それでゐて世界に対抗するべく、
世界の改変を試みるのであるが、
皮肉なことに、現存在がさうする事で、
尚更、天災は非常に冷酷になり、
その絶対的な力でぎゅうっと呻き声さえ発せられずに、
現存在は虫けら同然に自然に弄ばれる。
それは生死すら自然の手の内にあり、
現存在のその非力を苦苦しく噛み締めながら
天災が過ぎるのを唯、ぢっと待つのみ。
然し乍ら、死が近しい天災の起きてゐる状態において、
現存在はそれが死に対する現存在の正しき作法のやうに
心躍る心の状態は隠しやうもなく、
そのやうな状態でしか、
多分に現存在は己の死に対峙する事は出来ぬのであらう。
それは生命が誕生した時から脈脈と受け継がれた死の間際の生命の「正しき」状態であり、
ある種、Tranceトランス状態の中、「光」を求めるやうに死んで行くのであらう。
それではその光とは何の謂なのか。
例へば死に行くものは死の直前、
人生の思ひ出が走馬灯のやうに駆け巡ると言はれてゐるが、
その時、時間は面白いほどに間延びして
とんでもなくゆっくりと流れてゐると感じてゐるに違ひない。
実際に脳、つまり、私的な言葉で言へば五蘊場は
これ以上ないと言ふほどに目まぐるしく「回転」し、
固有時は現実を突き抜ける筈なのである。
その回転は光速に近しく、
その結果、時間は途轍もなくゆっくり流れる。
世界、若しくは自然に対して非対称である現存在の在り方は、
世界を顚覆しない限り、
太古から変はりはしないのだ。