気が付くとおれの意識が宿る場はがらんどうだった。
それを認識したおれがやらなければならぬ事は
自分探しのやうな下らぬ事はせずに、
ぼうっと終日ひねもす過ごす事だった。
さうしておれはこの下らぬおれを切っ先鋭い刃で斬首する。
ころりと首から落ちた頭部は
首なしのおれが左手で髪を摑んで天空に掲げる。
さうすれば、斬首されたおれはかう叫べるのだ。
――おれは何処へ消えた!
そんな幻視の中、
おれはぼんやりと終日過ごすが、
おれはぼんやりとおれを斬首する光景を思ひ浮かべ、
さうして自己憤懣を晴らすのか。
がらんどうのおれは、
がらんどうのおれを後生大事に抱へ込む事なく、
薄気味悪くもぼんやりとおれを斬首する幻視を見ながら、
――くっくっくっ。
と、にやつく事でがらんどうのおれを少しでも充塡しやうと
おれを束の間、瞞すのだ。
ぼんやり終日過ごす事は
がらんどうのおれには吾を忘れる幻覚剤のやうに作用し、
さうしてコロッとおれは幻視に瞞される。
欺瞞の中に溺れるおれは、
――これ程楽しい事はない!
と、有頂天となり、
がらんどうのおれを束の間、おれががらんどうである事を忘れる事で満足し、
さうして意味のない一生を生き切る。
さうなのだ。
人生には元元意味などなく、
意味があると考へてゐる輩は能天気な幸せ者で、
意味のない一生を生き切る苦悶、否、袋小路の人生は、
存在の尻尾を見るのに、若しくは物自体の尻尾を見るのに
最適解の一つなのだ。