軽軽と思考が吾を追ひ越す時は、
日常茶飯事で、
それが何を意味するのかを考へると
吾もまた振動体で、
打ち震へてゐるのだ。
「吾思ふ、故に吾あり」
といふデカルトの有名な言葉があるが、
これは思考が軽軽と吾を追ひ越すことを考へると
一見、何かを言い当ててゐるやうでゐて
全く間違ってゐるといふ結論にならざるを得ぬのだ。
正しくは、


――吾思ふ、故に吾超克される。


となるであらう。
さうでなければ、
吾が此の世に存在する駆動力、即ち、変化するべき絶えざる思ひは
出現しないのだ。
万物は流転する、とはギリシャの哲学者の謂だが、
此の世の森羅万象は変化するべく、
現在にずっと留め置かれてゐる。
さう、存在は現在から身動き出来ぬのだ。
さうであればこそ、存在は変化することを存在の駆動力として現在に存在出来る。
つまり、現在に留め置かれてゐるといふことは
ずっと未完成といふことであり、
存在は完成を欣求して絶えざる変化をして已まぬ。
さうであるからこそ、思考は軽軽と吾を追ひ越し、
吾の変化を増進するのである。
思考と吾とのずれは
弾性を生み、
びよんびよんと吾が打ち震へる
振動体としてのみ此の世に存在することを世界は許す。
吾にずれのない存在は、欺瞞であり、
自己認識を誤謬してゐるに過ぎぬ。


思考が軽軽と吾を追ひ越す時、
吾もまた、現在にのみ存在出来る未完成のものとして
絶えざる変化を存在の駆動力として此の世に佇立してゐるのだ。
積 緋露雪

物書き。

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積 緋露雪

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