魂に重い重い錘鉛が括り付けられたかのやうに
足取りが重重しくふらりふらりとふらつきながら
この重力に支配されれた大地を歩くが、
二三歩歩くだけで物凄い疲労に包まれ
呆然と佇立してしまふ今、
私は有無を言はずに寝込むべきか。
この物憂げな魂を引き摺るやうに
肉体ばかりが先走るこの心身の不一致の中、
魂は背を突き破って吾が肉体から飛び出さうだが、
私はこの不自由極まりない状況でありながら、
意外にも冷静で、
私の意識は魂の在所たる私といふものを
内部の目で凝視してゐたのである。
たが、意識といふものはいくら凝視して
捉へやうとしても曖昧模糊としてゐて
掴み所がない幽霊にも似た存在で、
確かに存在してゐるのは解るのであるが、
闡明しないのだ。
私はこれは私の意識にももしかすると
ハイゼンベルクの不確定原理が当て嵌まるのではないかと
不意に思ひ立ち、
凝視することを止めた。
有耶無耶な意識は
然し乍ら、ある集合体として存在してゐて、
私の頭蓋内の闇たる五蘊場に無数の小=私として
離合集散を繰り返し、
脈打ってゐるやうにも思へたのである。
それをCameraのShutterを切るやうに
接写しやうものならば、
焦点がずれたぼやけた写真のやうに
漠然と私の意識がぼうっと写るに違ひない。
実際、私は私の意識を凝視してゐた時、
千変万化する雲を見てゐるやうであり、
それ以上は闡明することなく、
意識は相変はらず、
曖昧模糊とした存在だったのだ。
その時、表象群は様様に現はれては消え、
私を狸の化かし合ひではないが、
何度となく私をおちょくっては
せせら笑ってゐたのは間違ひない。
私の意識にも仮にハイゼンベルクの不確定性原理が当て嵌まるのであれば、
意識は、そもそも捕獲出来ぬ存在で、
意識を凝視しやうにもそれはぶれずにはをれぬのだ。
接写など不可能でしかなく、
私はこの謎ばかりが拡がる意識といふものに対して
何となく合点がいったといふものだ。
魂は相変はらず物憂げに
重い重い錘鉛を括り付けられたやうで
意識が前頭葉から、魂は背から飛び出すかの如く
心身はバラバラであるが、
動くに動けずこの大地に佇立するのみの私は、
然し乍ら、天を見上げて右手を伸ばしたのであった。