忍び寄る跫音
と真夜中の古い木造の階段を上ってくる跫音がする。
しかし、私はそれには知らんぷりを決め込んで、
『場の量子論』を読むのに熱中してゐる。
何やら最近際騒がしい量子重力理論への入り口として
もう一度読み直してゐるのである。
カントがア・プリオリと封印してしまった
時空間を解放するためにも
物理数学でカントがア・プリオリとして封印してしまったものを
再び日の目が当たる娑婆へと解放するには、
物理数学で対抗する外ないと
量子重力理論を品定めしてゐる。
そんな時に何ものかの跫音が聞こえだし、
――えへら、えへら。
と嘲笑を放っては、
私の視界の境界にひょいと顔を出しては
あっかんべえをする。
それでも私は知らんぷりを決め込んで、
Pipeの煙草に火をつけて
紫煙を胸奥深く吸ひ込んで、
――ふうっ。
と煙を吐き出す。
成程、時空間も連続ではなく、
飛び飛びの非連続なものとの思考は
私の考へてゐた時空間の姿について補完するものとして
腑に落ちるところではあるが、
しかし、物理数学も数多ある世界観の一つに過ぎぬとして
私はそれをして私の考へが深まることはないが、
唯、カントがア・プリオリのものとして封印した時空間は
やっと解放されて、
時空間そのものが思索のTargetになったことは
喜ばしいことではある。
と、そんな時忍び足で跫音を立てずに私に近づく何ものかは
――ぺん。
と私の後ろ頭を叩き、
それでも素知らぬふりをする私に
地団駄を踏んで私を羽交ひ締めにする。
それでも素知らぬふりをして煙草を吹かす私は、
そいつの相手をするほどには心がざわつかぬ。
さうして私は深く私にのめり込み、
瞼を閉ぢては黙考に耽溺する。
――私とは絶えず私でないものへと変容しやうとすることを夢見る、絶えず私に対して憤怒を持ち続ける、つまり、私を持ちきれぬ存在であるが、しかし、その実、私は私に胡座を舁いてゐて、傲慢にも私であることに安住もしてゐる……。
と、そこで、私は階段を上ってきたそいつに刺され、
吾が腸が腹から食み出るのを見て卒倒する。
――是非に及ばず。
消えゆく意識にそんな言葉が浮かんでは意識は遠のき、
私は内界の闇か外界の闇かは解らぬが
底知れぬ闇の底へと沈んでいった。