いくら嘆いたところで、
質量を持ったものが光速に限りなく近い速度で動けぬ以上
もう二度と過去へは戻れない。
仮令、光速に限りなく近い速度で動けたとしても
相対論的にはBlack holeが誕生し、
時間の進み方が遅くなるだけで
もう二度と過去へは戻れない。
一度ぶちまけられた未知の新型ウイルスは
覆水盆に返らずではないが、
もう二度と日常から消えることなく、
人間を宿主として増殖し、
日一日と死屍累累の山を築きながら、
新型ウイルスとの共存でしか、
日常はあり得ぬのだ。
哀しい哉、生き残ったものにしかもう未来はない。
しかし、それでいいではないか。
これまで、生物学的な進化をサボってきた人類は
この未知の新型ウイルスとの遭遇で、
やうやっと一つ新たな人間へと生き残ったもののみが進化する。
自然の死の選別は残酷であるが、
人類はそれを黙して受容せねばならぬ。
大鎌を肩にかけ、
死神が雲に腰掛け嗤ってゐるが、
そんなものにはちっとも恐怖を感じず、
死するのであれば、
黙ってそれを受け容れなければならぬ日常に
人類は放り出されたのだ。
巻き戻せぬ時間を憾んだところで、
或ひは文句の持って行きやうがないから
八つ当たりで政治家に憤懣をぶつけたところで、
過去の日常は戻ってくる筈もなく、
唯唯、この残酷な日常に順応するしかない。
日常とは元元残酷なもので、
それを忘れてしまった現代人に全面的に非があるのだ。
中国の隠蔽がなかったらとか、
タラレバはもう現実逃避でしかなく、
もう過去には戻れぬのだ。
敢へて言えば、死が身近になって
人類は幸ひである。
人類史を辿れば、
現代人以外で、未知の病を受容することなく
日常を生きてゐた時代はなきに等しく、
身一つで自然と対しながら、
人類は進化してきたのである。
内心忸怩たる思ひがあるだらうが、
過去には戻れぬといふ事を
今一度肝に銘じて
死が身近に転がってゐる至福の日常を生きやうではないか。
それが生老病死を忘れた現代人の救ひである。
「正月は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」と唱へながら
正月に髑髏を杖にのせて街中を歩いた一休宗純は流石である。
積 緋露雪

物書き。

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