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小説 祇園精舎の鐘の声 十一の篇

 近くで見た人は倉井大輔は幽霊に見えたことだらう。ゆらりゆらりと気配を消すやうに歩く倉井大輔は、然し乍ら、その異様な歩き方とは対照的に自分では一歩一歩大地を踏み締めて生の感触を噛み締めながら歩いてゐたのであった。倉井大輔は詰まる所、生に飢ゑてゐたのである。それに倉井大輔の肉体がもう、魂についていくのがやっとだったからである。この魂が肉体に半歩でも先立つ状態が倉井大輔を夢遊病者か幽霊のやうに見せてしまふのである。この魂と肉体のずれは倉井大輔も自覚してをり、決して倉井大輔は肉体と魂の二元論には与してゐなかったが、この埋めやうもない魂と肉体のずれは、否が応でも現存在には魂と呼べるものがあり、気が逸るといふ感覚とは全く違ふ幽体離脱しさうでゐて肉体は幽体になんとかしてしがみついてゐる状態が、正しく倉井大輔の状態なのであった。幽霊のやうにゆらりゆらりと歩いてゐる倉井大輔は、その内部を覗けば鬼の形相で肉体から逃げ出やうとしてゐる魂に置いてきぼりを食はないやうに必死なのである。もし、倉井大輔が魂を追ふことを已めたとしたならば、それは最早甦生不可能な地獄のまた底にある深地獄とも呼ぶべきところへと堕す行為に外ならず、それは輪廻転生といふ救ひ様のない、つまり、現世とは断絶した無間地獄とは全く意味の違ふ永劫地獄へと転げ落ちる生ける屍を意味してゐたのであった。さうなると質が悪く、倉井大輔が正気を取り戻すには十年単位での時間が必要になるほどに、倉井大輔は絶望の中で藻掻き苦しむ歳月を幾星霜も過ごさなければならなかったであらう。
――ちぇっ、あの赤い月がせせら笑ってゐやがる。そんなに可笑しいか。おれが鬼の形相で必死に魂にしがみつくことが。
 赤い昇り立ての月は、しかし、せせら笑ってなどをらず、地球の大気を最後まで通過した赤色の波長の長い太陽光が月面で反射して地球に降り注いでゐるに過ぎず、単なる物理現象として月は赤いのであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。然し乍ら、その赤い月は倉井大輔には異様にしか見えず、数理的な論理と倉井大輔の感情とのこの跨ぎ果せない巨大な溝は如何様にもできずに倉井大輔は、赤い月が身も蓋もない単なる物理現象に過ぎないと知りつつもどうしても赤い月に異様な胸騒ぎを覚えずにはゐられなかったのである。
 それは葛藤といふ言葉で片付けるには余りにも似つかはしくない様相をしてゐて、強ひて上げれば数理的論理と内部から鬱勃と湧き上がる感情との全く相容れない、つまり、お互ひが全く次元の違ふところで、向き合ふことが逆立ちしても不可能なものとして、あらぬ方を向いて対座するといふ言葉が相応しく、倉井大輔はといふと其処に無限の断裂を見てしまふのであった。それはいつまで経っても感情は数理的論理とは違ふ論理で太古の昔より全く進歩なくあり続けてゐる、つまり、倉井大輔の魂と肉体との関係と相似形なのである。それはFractalフラクタルな関係にあるともいへ、感情は抑圧してでも数理的な論理を受け容れなければ、倉井大輔が世界に押し潰されてしまふ生死を分けるほどに重大な意味を持つことなのであった。然し乍ら、感情は理性の言ふ事など聞く筈もなく、理性と悟性、そして感性に対しての感情の不服従の姿勢は一貫してゐて、感情を抑へつつけるには理性による恐怖政治を布かなければ到底感情を抑へつけることなどできる筈もなく、然し乍ら、倉井大輔はといふと理性の恐怖政治にほとほと疲れてしまってゐたのである。現代社会に生きる現存在が抱へ込まざるを得ぬ科学的論理といふ洪水に呑み込まれることに倉井大輔は何のことはない、疲労困憊してゐただけなのであった。


十一の篇終はり

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