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小説 祇園精舎の鐘の声 十二の篇

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科学的論理と感情の鬩せめぎ合ひは、然し乍ら、どちらも己の立場を譲ることなく、話が徹底的に噛み合はぬのであった。それも当然のこととはいへ、土台、科学的論理と感情の論理が交はることは人類滅亡まであり得ぬと倉井大輔は諦念してゐて、科学と感情のどちらを優先させるかと問はれれば、倉井大輔は迷ひなく感情を優先されると答へる類ひの人間なのであった。それだから、倉井大輔はSystematicに余りに合理を追求する現代社会には途轍もない居心地の悪さしか覚えることはなく、「遊び」のない余りに合理的な現代社会は動物でもある人間の感情を何処かしら傷付けなければ成立し得ぬものと看做してをり、倉井大輔が日日生き残る度に感情はずたぼろに傷付けられるのである。
とはいへ、倉井大輔は頭の中のことであれば、科学的論理は嫌ひといふよりも大好きなのであった。倉井大輔はこの矛盾に嘲弄の嗤ひを自身に投げ掛けるのであるが、しかし、倉井大輔はその本質においては数理理論が大好きで、寝ずにそれらの専門書を読み耽ること屡屡で、こんなに面白いものはないと倉井大輔は目を閉ぢながらいつも思ふのである。とりわけ倉井大輔が好きなものは、物理数学、就中、理論物理学で、大宇宙から物質の根源までを統一の理論で証明するといふ壮大な試みに感心しきりなのであった。
――[ E=mc^2 ]とはアインシュタインの特殊相対性理論の概要の一部であるが、物質の質量がEnergyに変換可能といふ卓見は、光速度一定と言ふ事から導かれたものであるが、物質はEnergy、それも厖大なEnergy体に変換可能といふことは、詰まる所、形相と質料との微妙なBalanceの上に存在するものは、Energyとして四方八方に飛び散り、光が消滅するやうに最期は消えてなくなる可能性を潜在的に秘めてゐて、原子爆弾は、ウラニウムに中性子を衝突させると核分裂反応が起きて、原子核が分裂するときに質量がほんのほんのほんの僅かだけ少なくなることで、何十万もの生きとし生けるものを殺戮できる莫大なEnergyを生み出す。これはアインシュタインの特殊相対論からの導き出されたことであるが、例へば一円玉一つが全てEnergyに還元できれば、人類はEnergy問題に悩むことなく暮らせるだけの厖大なEnergyを獲得できるのである。
と、倉井大輔は不意にそんなことを思ひながら、門前町へと踏み出したのであった。家家には電灯が灯ってゐて、其処には日常生活が確かにあるのであった。しかし、もし、物質がEnergy体へと一斉に変化したならば、これらの日常は藻屑と消えて蒸発するのである。ものの有様は見やうによってはとても危ふい調和の中に存在してゐる。だから、日常は日日在り来たりながら尊ひのである。倉井大輔は態態わざわざ覗いわけではなく、不図目に飛び込む市井の人人の日常が何とも愛ほしくて仕方がないのであった。其処には数理では語り尽くせぬ人間の日常が存在してゐたからである。

十二の篇終はり
積 緋露雪

物書き。

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