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小説 祇園精舎の鐘の声 十七の篇

不合理を回避することの脆弱さは、その社会システムの本質が砂上の楼閣でしかないことの表れに過ぎぬのではなからうか。それといふのも、科学者は自然には法則があると言ひ条、その法則は人間社会には不合理極まりないものであるといふ視点が徹底的に欠落してゐる。産業革命からこの方、自然法則と人間の文明による社会システムの位相のずれは拡大に拡大を重ね、その結果、振幅が大きくなった自然の有様に人間は翻弄され続けることに相成ったのであるが、現在は、その自然に人間社会が振り落とされるかどうかの瀬戸際なのである。それも科学者は論理的に分析し、それをシミュレーションして見せて、身も蓋もないほどに自然の傾向を指し示すのはいいのであるが、ならば人間の日常はそれに対してどう対処すればいいのかを全く語らぬのであった。結局、科学者といふ人種は徹底的に傍観者であって、生活のファクタをシミュレーションのデータとして組み入れることはできぬのである。つまり、数値にならぬものは、または数式にならぬものは科学的論理からはあってなきが如くに不問に付され、科学者が示すシミュレーションには全く反映されず、日常を営む生活者にとって科学者が指し示すシミュレーションは雲をも摑むやうな生活者との論理とは分断してしまってゐて、
――だから何?
といった具合に生活者の日常にそのシミュレーションを反映させる術は徹底的に欠落してをり、或る意味日常生活者には無意味なシミュレーションを示すことで科学者の論理的思考は止まってしまってゐて、科学の論理と日常の論理の乖離は目も当てられぬほどに悲惨極まりないのである。この一例からも解る通り、論理的な世界には日常が徹底的に欠落してゐて、科学者に日常といふものを問ふて見れば、お茶を濁すのが関の山であった。
尤も、日常を生きる生活者にも非がないわけではなく、科学的データから想像力を働かせて日常がどのやうに悲惨なことに相成ってゐるのか理解できなければならぬのであるが、ジャーゴンで凝り固まった科学的論理からそれを想像するのは殆ど不可能といはざるを得ぬである。しかし、それもその筈で、蛸壺での研究に勤しんできた科学者の論理など解る筈もなく、現代人の多くはこれだけ高度情報化科学技術化された文明の中で暮らしながら、人類史上最も科学に疎い時代はなく、ジャーゴンで理論武装する科学者に対して日常で使ってゐる言葉が全く通用しないのであった。これは全的に科学者の怠慢であって、ジャーゴンでしか理論武装できないといふことは科学者は社会と断絶した蛸壺での存続を、つまり、科学者の醜悪な自己保身でしかないのである。世間ずれしたこんな科学者を何か意味あることを語ってゐるかのやうに丁重に扱ふ例へばテレビジョンの司会者は何処まで行っても滑稽で、科学者と知ったか振りのテレビジョンの司会者の話の噛み合はないことといったならば、ある種のにコメディを見てゐるのと変はりがないのである。
倉井大輔にとって科学のジャーゴンは、然し乍ら、理解できるので、科学者が語る言葉や内容はよく解り、何の事はない、殆どの科学者が内容のないのことを語ってゐて、ジャーゴンでしか自身の研究を、また、自身を語れぬ科学者の悲哀しか倉井大輔には感じられぬのであった。それは憐憫でしかないのである。


十七の篇終はり
積 緋露雪

物書き。

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