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夢幻(むげん)空(くう)花(げ)

夢幻(むげん)空(くう)花(げ)





なんだかんだであれやこれやと思ひ悩みながらの十年以上の思索の結果、埴谷雄高の虚体では存在の尻尾すら捕まへられぬといふ結論に思ひ至った闇尾(やみを)超(まさる)は、それではオイラーの公式から導かれる虚数iのi乗が実数になるといふことを手がかりに虚体をも呑み込む何か新たな存在論が出来ぬかと思案しつつ、それを例へば虚体は存在に至るべく完全変態する昆虫の生態を模して存在の蛹のやうなものと強引に看做してしまって、闇尾超はその存在の蛹から虚体に代はり存在が完全変態して何か全く新しい何かに変態すると考へ、また、一方で、虚体の仄かにその実在を暗示する、例えば虚体がBlack(ブラック) hole(ホール)の如く外部から漆黒の闇としてしか見えぬながら、其処は物質で充溢してゐる、もっといってしまへばBlack holeの内部は光に満ち溢れた眩しさに眩暈のする世界で、将又、Black holeが存在するといふことがBlack holeを取り巻く高速回転し強烈に輝き、色色な電磁波を発しながら崩壊し行く星たちの様から暗示されるのと同じやうに、虚体は詰まる所、実体が光を放たんばかりに充溢しているものの杳として直接にはその形相が見えぬその有様などをも鑑みて闇尾超は虚体に代はる存在の完全変態する全く新しい存在の有様を杳体(ようたい)と呼び、それをして杳体御大と綽名されるに至った闇尾超は、埴谷雄高と奇妙な縁で結ばれてゐたのか埴谷雄高が名付けたところの所謂”黙狂”であった。何故、闇尾超が黙狂になったのかは正確なところよく解らなかったが、風の噂によると闇尾超が黙狂になったのは闇尾超が黙考に黙考を重ねてゐるうちに精神疾患に罹り彼の脳と声帯との神経回路が断裂してしまって発話は渾沌を極め、話し方そのものを忘却してしまったからと言はれてゐた。闇尾超はRehabilitation(リハビリテイション)を勧められたがそれらは一切拒否したといふ。しかし、闇尾超の言語野は破壊されたわけではないので、闇尾超は何時もSmartphone(スマートフォン)を携帯してゐて、他人とのやり取りはそのSmartphoneを使って行ってゐたので、闇尾超は黙狂であっても何の不自由も感じてゐなかったやうだ。
その闇尾超は、しかし、極度の自虐の虜になってゐたと言われてゐて、彼は絶えず、
――お前自身を、お前の手で徹底的に弾劾せよ。お前の存在をお前は決して許すまじ。はっ、お前の手でお前を抹殺せよ。さうしてお前は口から手を突っ込んでお前の胃袋を引っ摑んで胃袋の内部を外部に引っ張り出して島尾敏雄の『夢の中の日常』のやうに体軀を裏返し、さうして首を刎ねて晒し首にせよ。その滑稽さがお前の本質だ。
と、闇尾超は己を針の筵の上に座らせては自問自答の罠に嵌まってしまってゐたらしかった。つまり、それは闇尾超は己の存在そのものを嫌悪してゐて、彼は死すまで闇尾超といふ存在を認めやうとはしなかったらしい。何故、闇尾超はそのやうな自虐の土壺に嵌まってしまったのかといふと、どうやら闇尾超は存在といふことに対しての全転覆、つまり、それはかうともいへ、あはよくば、宇宙に対して闇尾超といふ存在を賭して宇宙が闇尾超を認識した時にぎょっとする如くに宇宙に一泡吹かせることに取り憑かれてゐたとのことである。それは余りに馬鹿げたことであり、そもそもそんなことなど不可能なのであった。だが、闇尾超にとってそれは生あるうちにどうしても成し遂げるべき、または、闇尾超といふ存在の宿痾の如きものとして闇尾超には取り憑かれてしまったのだった。それは闇尾超が強烈に埴谷雄高の影響下にあり、「不可能性の作家」に心酔してしまったためだったのかもしれぬ。闇尾超は現代は不可能性を恰も可能であるかのやうに論理をでっち上げる時代であり、不可能なものをいかに可能のやうに見せられるかの化かし合ひの時代だと思ってゐたのは確かであった。
しかし、今はもう闇尾超は此の世にはゐない。疾うの昔に精神錯乱の上に病死し、夭折してしまったのであった。それも風の噂で知ったのであるが、闇尾超の死を知ってからといふもの私の頭からそのことは一時も離れることはなかった。それは何故なのだらうか。それは私の何処かに闇尾超に共鳴するところがあって、闇尾超に先を越されたといふ羨望とも嫉妬ともいへぬ何か私の心のどす黒い部分を闇尾超の死が撫でさすって呼び起こし、それがむくっと頭を擡げてその存在を私に突き付けるからなのかもしれぬ。
これまで私は物を書かうとしても、どうしても書けず仕舞ひに終はってしまってゐたのであるが、それでも新しい表現方法を見出せぬ私は、従前からある物語の既に使ひ古されぼろぼろになった表現におんぶに抱っこで、しかし、それでもいいので闇尾超の生の断片を思考実験の上で再構築したかったのであった。しかし、残念ながらそれが近代小説というものだ。さう開き直ってみたどころで、それでもそれは己が恥辱まみれで物語を書くことが恥ずかしいかったのもまた、事実なのである。そして、私は己の存在に対しても恥ずかしいからこれから書かれる思索の断片集に関して言い訳めいたことを書いて何とか己の恥辱を宥め賺してゐるのだ。さうせずば断片集なんぞ私には書けぬのだ。物を書くといふことは恥辱である。それでも闇尾超については書かれるべきなのだ。それは何故かと自身に問へば、詰まる所、存在に行き詰まった存在がどのやうにしてそれでも生を繋いでゐたのかを私自身が詳らかにしたかったからに外ならない。だが、物語は結局書けず仕舞ひで、闇尾超の思索の断片に応答する形での断片集しか書けなかった。
然し乍ら、この断片集はいふなればどうでもいい作品で、唯単に私の自己満足のためのものに過ぎぬのである。独り善がりの、読み手など全く意識せずに、只管自己満足のために書き継がれた断片集がこの作品である。つまり、私以外の読み手にとっては退屈極まりない代物なのである。それでも読みたいといふ人のみ読んで貰ひたい。多分、そんな人はゐないと思ふが。
私が、闇尾超を思ふ時、それは今も闇尾超の霊が此の世を彷徨ってゐて、宇宙背景輻射の如く宇宙創成時のBig(ビッグ) bang(バン)の名残として存在するやうに闇尾超の霊は確かに闇尾超の生の残滓として存在し、闇尾超は霊となってでも宇宙転覆の欣求を成就するために只管に此の世を跋扈しながら、また、深い深い思索の中に沈んだまま、黙狂者として彷徨ってゐるやうに思へてならないのだ。闇尾超は彼自身受け容れ難い己が存在に対して、若しくはそれ自体認め難い此の宇宙に対して一矢報ひたのであらうか。それはこれから語られる断片集で私なりの思索の結論らしきものを綴りたいと思ふ。


一、 此の世界の中で


晩夏の高い蒼穹の下、私はまだ、夏の暑気がたっぷりと残った陽射しを浴び、碧い碧い蒼穹を見上げる。そこには白い月がまだ昇ってゐて、白い月は晩夏の遠い地平線に鬱勃と湧き立つ入道雲を見下ろしてゐた。地は陽射しで温められ、さうして自然の摂理として生まれる上昇気流が地面に心地よい風を吹かせ、私はその風に身を委ね、宮崎駿監督の初めての監督作品「未来少年コナン」の最終回に主人公の一人の少女ラナがアジサシとともに意識が飛翔するやうになんだかあの碧い蒼穹を飛翔してゐるやうな奇妙な感覚に囚はれる。その心地よさはいくら高所恐怖症の私でも気持ちがいいものであった。この自在感は、意識のみだから為せる業で、肉体は相も変はらず地面に佇立したままである。それでは意識は、肉体と違って自在を獲得したかといへば、決してそんなことはなく、唯の戯れに意識は飛翔して見せただけで、それは「未来少年コナン」といふAnimation(アニメーション)が見せたImage(イメージ)をなぞってゐるに過ぎぬのであった。つまり、それは私の手抜きともいへるのだ。他者が作ったImageに無断で乗っかってゐるだけで、其処には何の創造性もないからだ。だから、私は返って心地よかったに違ひない。何の負荷も私自身の思考にかけずに他者から借りたImageにただ乗りするだけで、意識が自在を恰も獲得したかのやうに敢へて勘違ひする誤謬の自在感を私は心ゆくまで愉しんでゐたのである。
さうすると、もしかすると人生の醍醐味は誤謬にこそ潜んでゐるのかもしれぬといへる。誤謬することで私はどれほどの”自由”を愉しんできたことか。そもそも誤謬してゐるから気が楽で、仮に間違ってゐても誤謬故に端から間違ってゐるので気にする必要はなく、その気楽さが更に私を自由にさせ、つまり、心には重力からの解放が齎されるのであった。
――重力からの解放?
確かに誤謬に夢中遊行(いうかう)すれば、心は重力から解放されるが、しかし、それは解放された振りに過ぎず、重重しい肉体は相変はらず重力に縛り付けられたまま地べたに佇立してゐるままである。意識のみが仮象の中で重力の軛から解き放たれ、仮象の自在を知るのである。それは無重量の中の肉体の有様とは似ても似つかず、例へば自由落下するJumbo(ジャンボ) Jet(ジェット)機の中の無重量室の中では肉体は無重量に慣れるまで自由が利かずにふわふわと浮かんで不自由そのものだが、仮象の自在は将に自在そのもので、其処で仮象される私はちゃんと肉体らしき仮象を保持しながらの自在なのである。それが成り立つのはそもそもが誤謬だからに外ならぬ。
それでは仮象とはそもそもが誤謬なのであらうか。或ひはさうかもしれぬが、仮象であっても現実の予言的な側面があり、強ち仮象だからと言って、誤謬とは限らないのもまた事実である。これはむしろ当然のことであり、くどくどと述べることではないのであるが、事、自由、若しくは自在に関すれば、それは誤謬の仮象であればこそ自由、若しくは自在が満喫できるのである。それはこんな風な具合である。恰も自由、若しくは自在は極限値が存在する無限級数の如くに振る舞ひ、その極限値を求める時にひょいと飛び越えてはならぬ閾を、つまり、それは無限なのであるが、その無限へと飛び移って極限値になるやうにして、自由、若しくは自在に事象は相転移する如く変化するのである。現実はそもそもが不合理で、不自由極まりないものである。それを掻い潜って生あるものは存在するのであるが、物理的に存在は現実に束縛されてゐるのである。哲学者は、究極的に存在は時間に束縛されてゐるといってゐるものもゐるが、個人的にはそれはさうかもしれぬが、しかし、時間とはなんぞや、と問ふてみた時、その答へは曖昧模糊とした答へしか得られぬのが関の山である。とはいへ、”時間は流れる”のだ。流れがあれば其処には多分、カルマン渦が発生する筈で、その一つの代表的なものがもしかすると渦巻き銀河なのかもしれぬ。これも誤謬の仮象の一つに過ぎぬが、時間を表象するとなれば、それは誤謬の仮象を駆使する外ないのである。別の言ひ方をすれば、例へば時間を表象するには超越論的観念論の問題となり、確かに時間は此の世に存在するが、それを表象するには誤謬の仮象を用ゐて観念を曲芸的にでっち上げる外なく、その糸口としての自然現象のカルマン渦がその一つとして私は看做したのである。
時間のカルマン渦が仮に存在するとしたなれば、その表象として渦巻き銀河が考へられるといったが、もっと身近な存在に台風があり、もっと身近には不規則に細胞に折り畳まれて収納されてゐる二重螺旋のGenome(ゲノム)がある。渦に円運動といふ反復運動といふ視点を持ち込み、その視点で渦を語れば螺旋と渦は視点が違ふだけの同じ現象であるといふ結果に至るのである。そのことを考慮に入れて尚更極端なことをいへば、質料(ヒレー)に形相(エイドス)があれば、その形相が既に時間を表象してゐるといへるのである。その根拠は何かといふと、時間とは既に空間とは切っても切れぬことは言はずもがなであるが、時間だけを考へるのは、既に時代にそぐはず、時空間として此の世は概して四次元多様体として考えるのが、先づ、基本である。その上で、此の世は十次元とか超弦理論から導かれるのであるが、超弦理論が正しいとは限らないので、それもまた、誤謬の仮象かもしれぬのである。更にいへば、量子重力論といふものがあり、其処には出来事を表すのに時間の因子はなく、つまり、諸行無常なるものは、時間の因子がない中での絶えざる変化であり、それは湯水が湧くやうに状態が湧いてくるやうに状態が湧いてくる、つまり、時間因子から自由な変容があるのみなのである。
話は大分脱線してしまったが、量子重力理論はひとまず置くとして、形相、即ち、時間と看做せば、時間は流れることからそれに応じたカルマン渦の発生を予想したのであるが、時空といふものを持ち出せば、形相は既にそれが時間を表象してゐるのである。つまり、形相のない不可視な時間は、存在するとはいへ、それは大昔から何らその認識の仕方は変はってをらず、直感で認識する外ないのである。さうであることを知りつつも、それを脇に置いて、例へば、極端なことをいへば、この時空に存在するものは全て形相があるものとしてしまへば、形相がないものは、これまた極端なことをいへば時間に縛られながらも、一方で、在り来たりの時間を超越した存在といふことにもなると考へてみる。そんな存在に千変万化する幽霊が当て嵌まると看做せば、幽霊といふ存在はある意味時空からその存在の拘束を解かれた存在で神出鬼没に此の世に出現することになる。そして、個人的には此の世に幽霊が存在した方が断然此の世は面白いと思ってゐる。これもまた、誤謬の仮象が為せる業の一つであり、誤謬の仮象に夢中遊行する楽しみは、涯が尽きないのである。
以上のことを踏まへて改めてこの碧い蒼穹の下の世界を眺めると、森羅万象は時間の結晶であり、世界を眺望するといふことは時空が開示されるといふことなのだ。否、ある意味、既に時空といふものからも自由な世界といふ現象が湧き立ったゐるだけなのかも知れぬ。この眺望こそ誤謬の仮象とのGap(ギャップ)を知らしめ、現実に対してのずれを認識する良い機会なのだ。現実は概して不合理で残酷である。それに対して誤謬の仮象が現実と違ふことを認識しないと、その存在は夢遊病者のやうな状態で何時まで経っても仮象から抜け出せないまま、即死の危険性が高まるばかりである。それは泥酔したものが道路に横たはって車に轢き殺されるやうな危険性なのである。いい気分で道路に横たはったはいいが、走りくる車に轢き殺される悲劇は、現実に起きてゐることであり、お笑ひ種で済まされぬが、道路に横たはるのは泥酔してほぼ夢の中にゐるに等しい状態で更に夢を追ふためにこそ道路に横たはるのであり、それが即死に繋がるのである。つまり、このやうに仮象に閉ぢ籠もり、現実といふものを認識しないと、仮象に埋もれて現実に圧殺されるのだ。多分、四六時中仮象とばかり向き合ってゐれば、その存在は精神錯乱し、憤死するのが落ちである。
私は世界を眺めるのが好きである。しかし、これは矛盾を孕んでもゐる。この蒼穹下の世界のなんと美しいことか。世界は誤謬の仮象すら簡単に飛び越えて、私の想像すらできぬ予測不可能な変化を彼方此方で同時多発的に引き起こし、さうして千変万化するのだ。万物は流転する。しかし、それは至極当然のことで、高高ちっぽけな存在に過ぎぬ私のみの予想通りに世界が変化して行くのであれば、それは、他者にとっては途轍もなく窮屈な世界であり、迷惑千万なことこの上ないのである。それに、世界が私の予想通りに展開するのであれば、そんな世界はちっとも面白くなく、忽ちにして私は世界に飽きて仕舞ひ、それならば仮象と戯れてゐた方がどんなに有意義かと、世界に見向きもしないだらう。世界の魅力の一つは多様なものがごった煮の状態でありながら秩序を持って世界に呑み込まれてあっと驚く事象が起こるからである。世界は存在してゐるものに対しては何一つ見捨てはしない。どんなものでも世界に招き入れるのだ。とはいへ、世界はこれまで多くの死滅を見守ってきたのも事実だ。また、一方で、世界は密かに選別を行ってゐて、予め世界に存続できないものは世界から弾かれて世界はそれを拒絶してゐるのだらう。世界に関してはそのどれもが正しいが、しかし、事、生物に限れば、生存競争を勝ち残ったもの、適材適所で生き長らへてきたものしか、その存在を許さぬ。しかし、例えば突然変異などのやうにそのものの発生において異形であっても世界はその存在を許す。けれども、その異形のものが生き長らへるかどうか世界は厳然と選別を行ひ、それは冷徹極まりないのだ。
また、私の仮象が現実とまるで違ふことからも解る通り、仮に私の仮象と現実が寸分違はず一致するとしたならば、それは渾沌を極め、世界の道理が立たぬ。道理が立たぬ世界は既に世界の資格を失ってゐて、それが仮に存在するのであれば魑魅魍魎が跋扈する地獄絵図にも等しい”悪”ばかりが蔓延る絶望の世に違ひない。唯、そんな気がするだけのことだが、しかし、大概、直感といふものは本質を鷲摑みにし、正鵠を穿ってゐるものだ。とはいへ、世界に秩序が、道理が存在することは否定できぬ。秩序があるからこそ、私は此の世界の中で予測不可能なことが同時多発的に起きながらもそれぞれに対してかうなるだらうといふ予測を立てては予定調和の中に不安を最小限に抑へながら、日常といふものを生きてゐる。平穏な日常が成り立つことは僥倖で、それが世界の慈悲ならば、此の世界は慈悲深いといふこととになるが、世界は時に牙を剝き残酷極まりないのも事実である。世界は不合理である。世界は節度あると看做すことは世界を買ひかぶってゐてそれは身を滅ぼす因になり得るのだ。
だから、この美しい世界において、大人(たいじん)でない私は日常をそれが終始平穏無事であらうとも右往左往して過ごすことになる。此の世界が好きといひながら、私は結局の所、此の世界を心の底では信じてゐないのである。なんと矛盾してゐることか。しかし、存在はそもそも矛盾してゐるものである。矛盾してゐるからこそ、此の世界に存在を許されてゐるのだ。果たして矛盾してゐない存在は存在してゐるのだらうか。どんな存在もその内部では矛盾を抱えてゐてその矛盾を矛盾から解放しやうとして日常を生き、例えば、前日矛盾であったものが、新たな論理を見出した結果、矛盾でなくなる事象を何度見てきたことか。然し乍ら、私はまだ、他力本願の境地にはほど遠く、此の世界に全的に身を任せることに恐怖を感じてゐる。なるやうにしかならぬとはいへ、それを金科玉条の如くにする恐怖は、世界の残酷さを身をもって体験してしまったから、その残像が消えぬまま、私は平穏無事な日常をびくびくしながら過ごすのだ。世界はある日突然、牙を剝き、存在を襲撃し、死に飢えた死神のやうに死者を死屍累累と堆く積み上げる。その死んだものたちの、そして、生き残ったものたちの怨嗟が此の世に充溢してゐて、それは時間が長く長く流れることで最初の衝撃的な針が振り切れたやうな動揺と心の傷を癒やすのであらう。
また、この不合理で冷酷な世界は、例へば”特異点”といふ矛盾を抱え込んでゐる。これは此の宇宙の創成にも関わる大問題で、極限まで、存在するものを小さくして行き、超えてはいけない一線を飛び越えてその存在を無にしてしまった時、無限の扉が開いてしまふのか、それとも無が此の世界を鎮めるのか、いづれにしても何が起きるのか特異点では未だに不明なことである。それは無から有が生じるのかといふ此の宇宙創成時に関はる問題で、少なからずBlack holeの問題にも関係する。ここで、誤謬の仮象を用ゐれば、それは夢幻の世界である。つまり、特異点の問題が解決しない限り、世界は夢幻を孕む摩訶不思議な世界が成り立つのである。夢を見るのは特異点と深く結び付いてゐて、夢の世界での全肯定は或ひは特異点ではあらゆることが肯定されるそれこそ摩訶不思議な世界なのかもしれぬのである。だから、夢に啓示を覚えて夢を正夢として、また、物語の断片として後生大事に扱ふ人がそれこそ五万とゐるのである。それもこれも特異点に帰すのである。果たして闇尾超も特異点の問題に躓いたのだらうか。夢がこの宇宙をぎょっとさせ、宇宙を転覆させるその端緒になるとでも考へてゐたのであらうか。夢といふ世界の原理である全肯定のその世界は、夢幻の世界に留まらず、それは食み出してしまってこの現実世界に影響してゐると考へたのだらうか。そんなことを考へながら、蒼穹を気持ちよささうに流れる雲を私は今、見てゐる。上昇気流がある高さまで届いて雲を生じ始めてゐる。凪の時間は終はって風が上空に吹き始めたやうだ。この現実が秩序ある世界といふことは特異点からは遠くに存在し、全肯定の世界ではなく、冷酷無比な振る舞ひをするのかも知れぬ。


二、 闇尾超からの贈り物


闇尾超の死を知ってから数週間過ぎたある日のこと、闇尾超の二歳年下の弟から私宛に数冊の大学Note(ノート)が郵便で送られてきた。その大学Noteは闇尾超が生前、某精神病院に入院中に書き綴ったものであった。それは闇尾超が死ぬ前日まで書かれた日記風の思索の跡で、何故、それが私に送られることになったのか初めは解らなかったが、その大学Noteには闇尾超の弟の手紙が添へられてゐて、其処には闇尾超が生前、闇尾超が死んだならば、この手元に今ある数冊の大学Noteを私に送るやうに遺言したとのことである。何故私なのかといふと、闇尾超曰く、この大学Noteに書かれてゐる内容を理解できるのは此の世で私しかゐないとのことであった。
私と闇尾超の関係は幼馴染みで、所謂、竹馬の友であった。高校までは闇尾超とは同級生として私は過ごし、大学は別であった。学校が別になると闇尾超と私は自然と疎遠になってしまひ、音信不通であったが、私も闇尾超も何を考へてゐるのかは以心伝心の如くお互ひお見通しであったと思ふ。つまり、お互ひ会ふことはなかったが、それは、お互ひが今何に悩んでゐて、また、何を考へてゐるのかが手に取るやうに解ってゐたからである。それは闇尾超が書き残した大学Noteを読めば明らかであった。


――己に対して猜疑心が芽生えるともうそれは歯止めが利かぬ。それはそもそも私なんぞの存在自体が脆弱であり、己に対する負の連鎖は止めどなく続き、己を断崖絶壁まで追ひ詰めぬと私の気が済まぬのだ。さうして追ひ詰められた私が硫黄島のBanzai cliffでの出来事を再現するかのやうに『万歳』と叫びながら断崖絶壁から飛び降りるだ。そして、私は宙にゐる数秒間に吾が全人生が走馬灯の如く甦る中、恍惚状態で絶命する。不幸なことにその目撃者は、また、私自身なのだ。


などという言葉が書き連ねてあるその大学Noteをペラペラ捲っただけでも闇尾超の何故だか私の心奥へと一直線に襲ひかかり、私を懐柔するやうに私の首根っこを捕まへては、
――ぐきっ。
と、私の首を圧し折るその言葉の持つ圧力は相当なもので、弾丸が鉄板を打ち抜くやうに闇尾超の言葉は私を撃ち抜く。つまり、死んだものの勝ちなのだ。始めから勝負は決してゐるのだ。そんなことは百も承知で私は闇尾超から送られた大学Noteを読み始めるのであった。それは瞠目せずにはをれぬ言葉が鏤められてゐて、やはり、闇尾超は己を己の手で断罪したのは間違ひないのである。


三、 摂動する私


――絶えず摂動し、ずれ行く私を指さして迷はずに『阿呆』と罵るべきである。その罵詈雑言にこそ私の本質の尻尾が隠されてゐる。自己肯定を賛美するものの浅薄さが目も当てられぬのは、自己がもう死に体として固着し、自己肯定する私は既に死臭を発する半分白骨化した自己を保持してゐるに過ぎぬのだ。自己肯定したならば、もうそいつは死んだも同然で、ほろほろと自己を慰めながら、奇妙な自己満足に堕す倒錯の中で、悦に入ったそのものは、もう克己の機会を自ら捨て去り、摂動して已まぬ私に対して目隠して、瞼裡に現れる自己の願望が具現化した表象群に囲まれて、夢現に化かされてゐるだけなのである。つまり、自己肯定とは現実を凝視することを止めた心地よい夢の中で生きることを善しとしてしまった所謂悪霊の為せる業なのである。


私は内部の私を摑まへることは不可能だと考へてゐる。それは物理学の量子力学の中の重要な原理であるハイゼンベルクの不確定性原理が内部の私といふものにも当て嵌まり、私を把捉しやうとするならば、必ず私はその私から逃れ行き、その尻尾すら捕まへられないのは、内部の私といふ存在は元来さういふ存在であり、捉へやうとした瞬間に内部の私は確定できずに曖昧模糊としたままに何となく漠然と、
――これが私?
と、私を名指せぬままにぼんやりと私らしいものをして私と呼んでしまってゐるだけなのである。それこそ闇尾超が名付けた杳体の如くに杳としてその存在は曖昧模糊と把捉不可能なのだ。とはいへ、存在してゐることだけは解るのである。さうして居直った私は、
――私は。
と、言ひ切ってしまった以上、引っ込みがつかずにその私と名指したものをして何か確定した私を見出したかのやうに振る舞はないと跋が悪いのか、何度となく私は私自身に対して猜疑の目を向けつつも、徹頭徹尾、その曖昧模糊とした私を何か確定した私として偽装して解ったやうな気になってゐるとんだお調子者なのである。
それでは、何故私に対してハイゼンベルクの不確定性原理なのかといふと、私は頭蓋内の漆黒の闇を五蘊場と呼んでゐるが、その五蘊場で私は私をパスカルの思索のやうな鋭きメスで五蘊場に棲む私を解剖しやうとし、現に解剖したところで、私は分身の術ではないが、メスを入れたところからすぐに分裂して見せて、メスを持つ私を嘲笑ふかのやうにそれこそ無限に分裂し、その無限の私が、それぞれ独自の意識を持ち、ペチャクチャと五蘊場中で議論を始めるのだ。それは現代音楽の合唱曲を聴いてゐるやうな錯覚に陥り、無数の声が重なると風音にも似た音ならざる音へと昇華して、ベートーヴェンの第九の合唱ではないが、何か途轍もなく高揚した熱気はひしひしと伝はってくるのである。つまり、私といふものはFractal(フラクタル)な存在といへ、それ故に五蘊場に棲む私は無限に分裂可能な存在なのであり、然し乍ら、さういった傍から私が、
――ぶはっはっはっはっ。
と、哄笑し、葉隠れの術ではないが、一瞬にして煙と化したかと思った途端に全ての私が姿を消し、
――ぶはっはっはっはっはっ。
といふ私を侮蔑する嗤ひ声のみが五蘊場に鳴り響くのである。ところが、五蘊場の何処かにか私といふ曖昧模糊とした、かういふと誤解を招くかも知れぬが、私といふ名の集合体が潜んでゐる筈で私はその変幻自在にして神出鬼没な私を《異形の吾》と名付けて幾分、吾ながらいい手捌きで五蘊場に棲む私を処したと私はほくそ笑むのであるが、その傍から異形の吾は、
――ふっ。
と、更に私を侮蔑し、鼻で笑ひながら私の内部の目の眼前に忽然と現れ、あかんべえをして直ぐさま姿を消すのであった。この異形の吾は時に鮮烈な印象を残す表象となって内部のの私の目の眼前に現れては直ぐさま姿を消し、時に煙幕を張ってその姿を隠す隠遁の術で私を翻弄しては、私をおちょくるその自在感は、ハイゼンベルクの不確定性原理でいふところの時間を、つまり、去来現(こらいげん)を攪拌して時制を滅茶苦茶に寸断して、未来でもなく、過去でもなく、現在でもない異形の吾に特有の出来事が湧き立つ変容が存在し、私はその変容に振り回されてゐるだけに違ひないのだ。もしかすると異形の吾にはそもそも時間がなく、あるのは出来事の変容のみなのかも知れぬし、異形の吾は時間をくるくると巻いてゴクリと呑み込んでしまったやも知れぬ。それ故に異形の吾の出来事の変容は変幻自在で千変万化にして神出鬼没なのだらう。さう思ふと何となく得心が行くのだ。肥大化した出来事の変容。それは詰まる所、私がでっち上げた化け物の一種であり、その眷属に私も加はるのかも知れぬが、しかし、私は時間に雁字搦めに搦め取られてゐて、これまで、一度も時間から自由なことはない筈なのである。否、異形の吾と戯れてゐる時はある種自在な感覚を味はってゐて、去来現から自由の身として内部の人として此の世に存在してゐるのだ。つまり、それは夢見の時間と類似点がなくもなく、竜宮城で過ごす数時間が現実では数十年といふ、またはその逆で、夢見の時間が数十年経ったのに現実では数時間のことでしかないといった、唯唯、時間の不思議を垣間見るのみなのである。
森羅万象が仮に私のやうにあるのであれば、皆、内部に異形の吾を棲まはせてゐて、夢中遊行する中で、時が経つのを忘れて時間の自縛から逃れ出てゐる、つまり、その時、吾は己から食み出し摂動してゐるに違ひない。いづれも己の属性から時間を取り除けば、それは至上の自在感を味はへる至福の時が待ってゐる。それがたまゆらの永劫なのかも知れず、私にとって異形の吾との戯れの時間は、不死の時間、つまり、それは時間を止揚してしまひ、なんだか異空間にゐるやうな、それとも永劫に触れた衝撃に打ち震へ、悦に入ってゐる至福の中にゐるやうな、そんな感覚に包まれた私は唯、異形の吾を追ってそのIllusion(イリュージョン)の世界に没入する中で、本質は吾を忘れて異次元へと出立するやうなわくわくとした心躍るたまゆらの永劫を存分に味はってゐるのかも知れぬのだ。その時、外部から私を見る観測者は、私が奇妙な振動をしてゐてゆらりゆらりと揺れてゐる陽炎のやうな存在に化した私を見るに違ひない。そして、私の目は虚ろで、あらぬ方向を見てゐて発狂したのかも知れぬと吃驚する筈なのである。それほど異形の吾との戯れは私を絶望の底へと落としつつも、私自身をそれだから尚一層抜けられぬまるで薬物中毒者のやうな異形の吾依存症を患ってゐるといへるのだ。
その実、異形の吾は徹頭徹尾その正体を明かさず、私を欺いては、
――ぶはっはっはっはっ。
と、哄笑するのだ。その嘲笑を含んだ哄笑が私の五蘊場中に反響してなんとも言ひ難い、さう、それはバリ島の民族音楽、ケチャにも似た恍惚の逆巻く鮮烈な合唱となっていつまでも五蘊場に鳴り響くのである。さうして益益高揚して行く私は、異形の吾が繰り出すIllusionにうっとりとしては異形の吾の思はせ振りの思ふ壺なのである。狐の化かし合ひにあったやうに半分は正気を失ってゐる私は、それでも尚、異形の吾の気配の後を何かに取り憑かれたやうについて行き、尚も私は吾を忘れたいが為に、それは底知れぬ私に対する絶望から来るのであったが、現実逃避したいが為に阿片中毒になったものが、阿片に群がるやうに、将又、異形の吾が振り撒く綿菓子のやうな蜜の虜となって別の言ひ方をすれば、蟻地獄に落っこちた蟻の如くに最後は生き血を異形の吾に吸はれて骸になるのを重重承知しながらも、そのたまゆらの永劫の状態に没入することは已め難いのであった。
ゆらりゆらりと揺れ動く私は、摑み所のないまるで幽霊の如くに魂を抜かれた生きる屍の如くに大地に佇立してゐるのかも知れぬ。多分、異形の吾を追ってゐる時の私は顔面蒼白にも拘はらず、ニヤニヤと不気味な笑ひを顔に浮かべ、それでゐて、高揚のあまり、汗びっしょりで目だけは眼窩の奥でギラギラと輝く、変質者と何ら変はりがない状態で、一遍上人の念仏踊りではないが、
――私は、私は。
と、ぶつぶつと呟きながら身をくねらせては、時折絶叫する異常者に成り下がってゐた筈である。然し乍ら、当の私はそれで善しと心の何処かで思ってゐて、恍惚状態に漸近して行く私は惑溺するのであった。何に惑溺するのかといふと、己に惑溺するのである。つまり、異形の吾を追ってゐるといふのは己に惑溺したいが為の私がでっち上げた口実にして邯鄲の夢の道具に過ぎず、私は異形の吾と五蘊場に棲むそれを名指すことで私の意識を私から分離し、距離を生じさせて、私の固有時とは別の時間が流れる異形の吾に翻弄されることで、私は上手い具合に私が恍惚状態に惑溺できる端緒を見つけてしまったのである。さうすると、それはMasturbation(マスターベーション)よろしく、高まる絶頂の時の射精で感情が一山越えるのにも似て、私の感情は必死に意識について行かうとしながら、ある時意識を追ひ越し、感情が意識に先立つ恍惚状態の中で、意識は溶解するその言葉も追ひつけぬ高まった絶頂の、それを名付ければ此の世に人型として存在する振動子と化したかのやうな搏動の揺らめきの中に没入する悪しき耽溺に違ひなかったのである。
何時も物憂げな私の魂は絶えず興奮を欣求してゐて、さうして日一日と生き延びる糧にしてゐたのである。ところが、一度異形の吾と名付けてしまったそれは、私が自身に惑溺するのを決して許さなかったのであった。異形の吾は手を変へ品を変へてまだ、私を誘惑するのであった。異形の吾は相変はらずその正体を明かさなかったが、それでも異形の吾が繰り出す表象の数数は、Aurora(オーロラ)を見るかのやうな此の世のものとは思へぬIllusionに私を巻き込みながら、私をそれまで経験したことがない世界へと連れ出すのである。私は私で、それが異形の吾の罠と知りつつも、例へば大渦に巻き込まれることが恐怖であることの裏返しに、それは心躍らせる興奮の坩堝であることといふやうなことを期待して、私は敢へて異形の吾の罠に飛び込むのだ。仮令、それが相当な幻滅を齎さうともである。異形の吾のIllusionは何時も最後は幻滅に終はるのであるが、私はそれで善しとして、異形の吾の諸行を何時も許してゐたのであった。何せ、私がすることなど高が知れてゐる。況して異形の吾のすることなど尚更高が知れてゐる。それでも私が異形の吾を追ふのは、異形の吾が限界を超えて何かをするその瞬間が見たいが為である。その瞬間こそが真のたまゆらの永劫へと続く扉を開けることであり、私は、異形の吾と名付けた私に対して過剰なまでの期待値を、確率が一にはならずとも一の近傍を標榜するその期待値を託してゐたのであった。


四、 オイラーの等式に吾を見よ


――オイラーの等式、つまり、exp(iπ)+1=0に吾を見よ。埴谷雄高は虚数に案を得て《虚体》を導出したが、虚体では存在の尻尾すら摑めぬことを思ひ知った私は、それでは存在に更に躙り寄れるものはないかと思案に思案を重ねた結果、ネイピア数のiπ乗が-1になるといふオイラーの等式に辿り着く。仮にネイピア数eが物自体の象徴だと仮定すれば、物自体の虚数i×π乗したものが実数-1になるといふことは、物自体に虚体×π乗すれば-1、即ち私の内部になると看做せなくもない。ここでは私の内部が皮膚を境にして負の実数の在処と看做してのことである。それは、何を意味してゐるかといふと距離である。私の外部は距離があるほどにそれは過去のものであり、それを推し進めれば現在は私の皮膚上のこと、そして、未来は私の内部といふことになる。このこじつけに吾ながら苦笑せずにはをれぬが、だが、このオイラーの等式には、もしかすると存在に躙り寄る鍵が隠されてゐるのかも知れぬ。私は物自体の虚体×π乗を《杳体》と名付けて、その杳として正体を明かさぬ存在に躙り寄らうとしたのである。


闇尾超にとっての杳体は私にとっての異形の吾のことである。それにしてもかうして闇尾超は杳体に辿り着いたのだ。-1が私の内部か。言ひ得て妙だな。さしずめ、それは私にとっては五蘊場のことに違ひない。だが、数学史上最も美しいといはれるオイラーの等式に私を映して闇尾超には何が見えたのだらう。闇尾超も数学に化かされたのか。数式は何とでも解釈可能だ。だから、数式に、それもオイラーの等式に足場を置いては無間地獄の陥穽に呑み込まれるだけだ。数式に暗示を受けるのはいいとしても、それをして存在の何かを摑んだと思ふのは、誤謬の始まりだ。へっ、誤謬を賛辞してゐた私が、誤謬だから駄目だといふのは大いに矛盾してゐるが、しかし、数式は劇薬なのだ。存在に躙り寄るには数式の高くて固い岩盤を掘り進めなくてはならないのだ。そんなことは闇尾超にも百も承知の筈だが、それでも尚、オイラーの等式に拘ったのは、自らの死を前にして先を急いだのかも知れぬが、それは生き急ぎといふものだ。多分、闇尾超はオイラーの等式を前にしても霧が晴れることはなかった筈である。それは、誤謬といふ《楽》に腰掛けてしまったことで、闇尾超はそれ以上の思索を深めることはできなかったのではないだらうか。虚体×πが何なのかの解釈がなければ、それは不完全といふことに過ぎぬ。更にいへば、ネイピア数が物自体? 笑はせないで欲しい。数学者からすれば、それは誤謬もいいところで、ネイピア数は実数であり、そこから仮定すれば、物自体ではなく実体だらう。乗数に虚数があるから闇尾超は目が眩んだに違ひない。
しかし、杳体御仁と綽名されてゐた闇尾超は更にオイラーの等式を追ひ求め、虚数iのi乗が実数になることに思ひ至った筈である。それはこの後に出てくるだらうが、虚体の虚体乗は実体になるといふ闇尾超の思考の一端がこのオイラーの等式に吾を見よ、に隠されてゐるに違ひない。
然し乍ら、思索の端緒はいづれの場合も数学なのか。数学は確かに凡人の私などの思索よりも更に深く深く深く掘り進めてゐるとはいへ、それは結局の所、私が、あの蒼穹を宮崎駿監督のImageに乗っかって自在に飛んだのと変はりはしないのでないか。其処には誤謬に遊ぶ楽が既に隠されてゐて、思索の、つまり、闇尾超の思索の限界が既に開示されてをり、ややもすれば、闇尾超の思索の自由を奪ってはゐないのであらうか。しかし、闇尾超には時間がなかった。それだけは事実である。無から有を生み出すには余りにも時間が足らな過ぎたのだ。これは闇尾超を責めるわけには行かぬな。それは闇尾超が私に託したことなのだ。だから、この大学Noteを私に残してくれたのだ。
そんなことは意にも介さずに残酷な現実は今日も私に日常を齎す。そして、この日常が曲者なのだ。ある日突然、日常は私に牙を剥く。それは自然災害だらうが、悪疫の蔓延だらうが、素っ気なく日常には死が転がってゐるのだ。それに目を瞑ってきた現代人は、しかし、自然現象が激烈さを増し、死者を黄泉の国から此の世に顕したことで、否が応でも死を身近に感じざるを得なくなった。現代文明は死を押し隠すことに精を出してきたが、図らずも現代文明は死を黄泉の国から此の世に顕すことに帰着したのだ。何とも皮肉だな。しかし、世界は徹頭徹尾不合理なものなのである。合理の権化が仮に数学ならば、闇尾超よ、お前はいくら時間がなかったとはいへ、数学を思索の端緒にしたのは拙かったのだ。思索の端緒は不合理でなければならぬのである。人間の思考の悪癖であるが、しかし、この悪癖が様様な発見に結び付いたのでもあるが、合理的であることが何か正しいものの如く此の世を跋扈し、大手を振って闊歩するのは、私は何とも苦虫を噛み潰したやうな思ひとともに、薄気味悪さを感じてゐたが、世界が、現実が、人間に牙を剥いて襲って来始めたので、安堵してゐるのは確かなのである。身近に死が転がってゐない世界、若しくは現実なんぞ決して受け容れられぬ。


五、 Eureka(エウレカ)


――Eureka! 見つけた。オイラーの等式を更に推し進めると虚数iのi乗は実数になるのだ。つまり、虚体の虚体乗は実体になる。ではi乗、つまり、虚体乗とは何を意味するのか。それは例へば、0乗が何ものも一に帰着させることから、それは、存在の期待値が一の、つまり、存在の確率が一であるといふ完全無敵の実在のことだとすれば、それから類推するに、先づ、虚数iの0乗が仮に一になると仮定すると、0乗が何を意味するかを推論できれば、虚数i乗の何かの手がかりが見つかるかも知れぬ。それ以前に0の0乗が一になるとの解釈も存在してゐる。無を0乗すれば有の一となる。これが確かだと仮定すれば、0乗とは神の一撃、若しくは無に面(おもて)を授ける契機に違ひない。これを虚数iに当て嵌めると虚体にも0乗は面を授ける契機となるやも知れぬ。そして、虚数iのi乗は虚体を虚体から実体へと変容させる契機なのかも知れぬ。虚数乗は虚体の化けの皮を剝がす契機だとすると、埴谷雄高の虚体の正体見たり!


やはり虚数の虚数乗が実数になるまで闇尾超は思索の触手を伸ばしたか。成程、闇尾超の思索の原資には数学が大いなる割合が占めてゐて、数学をして、闇尾超の思索を推進させる起動力になってゐたのかも知れぬが、それでは駄目なのだ。合理から始めては世界の術中に嵌まるのみ。不合理から始めなければならぬのだ。とはいへ、闇尾超は数学を礎に置いたとはいへ、それは全て闇尾超の推論でしかない。だから、それは善しと看做さなければならぬのかも知れぬが、闇尾超の発想の原点に数学がどっしりと腰を据ゑてゐるのであれば、それでは何にも語ってゐないのも同然なのだ。
然し乍ら、オイラーの等式を導き出すオイラーの公式は、存在が絶えず揺らめいて振幅を表してゐると解釈できなくはないことの数学的な帰結であるので、強ち闇尾超の推論が間違ひであるといふことでもない。全ては存在が揺らめいて曖昧模糊としてしか存在できぬことを指し示す証左として数学的な表現では、その帰結としてオイラーの公式が見出され、言語表現では、埴谷雄高の虚体、更にいへば、闇尾超が主張したところの杳体の、その杳として存在を摑まへられぬ主体のもどかしさは、存在そもそもが古めかしい言ひ方をすればハイゼンベルクの不確定性原理により存在が曖昧模糊としたものであり、存在を確たるものとして摑まへることは逆立ちしても不可能事であるのだ。存在といって画然と存在してゐるものなどそもそも此の世に存在しない。あるのは曖昧なものばかりで、それをして存在が闡明するものとして捉へるのは、誤謬の始まりであり、誤謬と戯れてゐたければ、それで構はぬが、闇尾超も私も誤謬を突き抜けた何が見えるか今以て誰も目にしたことがない視界を見たいが為に日日、悪戦苦闘し、さうして、闇尾超は精神を病んでその果てに夭折してしまった。それでも、
――Eureka!
と、感嘆してゐることから、闇尾超は存在の秘密の何かを垣間見たことだらう。さうぢゃなきゃ、闇尾超は死んでも死にきれなかった筈だ。しかし、私には闇尾超の霊魂が未だに此の世を彷徨ってゐて更に思索に思索を重ね、一度垣間見た存在の秘密をそれこそ合理的に構築して見せ、不合理な世界、若しくは闇尾超の望みであった此の不合理な宇宙をぎょっといはせ、宇宙顚覆のその端緒を見出さうと躍起になってゐるのかもしれぬ。
ともかく、闇尾超は何かを見出したことは確かだ。存在然としてゐながらその実、霧がかかったかのやうに曖昧模糊としてしか存在できぬ存在物は、その尻尾を闇尾超に摑まれ、仮象の国に安住してゐた物自体を引っ張り出して宇宙に蟻の一穴ではないが穴を開けたのかもしれぬ。だが、宇宙は、その時、ニヤリを笑ってその穴を闇尾超当人で栓をしてあれよといふ間に塞いでしまったやもしれぬのだ。その穴を仮に《ゼロの穴》と名付けてみれば、そのゼロの穴の栓になった闇尾超は例えば虚数が蠢く虚=世界を覗き込んだのであらうか。その宇宙の穴から見えた世界は一体全体どんな風景だったのだらうか。思ふに闇尾超が見るもの全ては、闇尾超の視線が向いた途端に存在は皆恥ずかしがり、闇に身を隠してしまったのだらうか。私は虚数の世界は闇の中だと思ってゐるのだが、闇に対した闇尾超は果たして何を見出したのだらうか。


六、 自同律の不快の妙


――自同律の不快の妙。埴谷雄高は、自同律を自同律の中に閉ぢ込めて合理的な考察に終始することなく、不快としたところにこの埴谷雄高の論法の妙が存分に現れてゐる。人間の起動力の一つに快不快があるが、それを自同律に持ってきた埴谷雄高の手捌きは優れてゐるといってよい。例へば『私は私である』で論理は一旦一区切りして、其処で思考は終はりを迎へるのが極普通のことであるが、埴谷雄高はぢっと思索に耽り、『私は私である』を蛸を噛むやうに何度も噛んでゐる中で、自同律から自然と湧き起こる『不快』といふ感情は如何ともし難いものとして自同律の不快といふ人類の思索史に残る箴言を残した。これは、しかし、誰もが抱く感情で、埴谷雄高以前に言葉として表したものは数知れずゐるが、それを端的に『自同律の不快』と名指せた炯眼に平伏す。しかし、事はそれでは済まず、自同律の不快のその先には必ず自己抹殺があり、つまり、『自同律の不快』は自己抹殺の狼煙であり、一度は必ず私は私によって抹殺される業を背負ってゐるのだ。それ故、『自同律の不快』は『自同律の不快故の自滅』が正確な言明であり、自身を自身の手で抹殺しなければならぬのが存在の存在たる所以である、といふのが存在の進むべき道である。


雨降る真夜中、雨音だけが響く中で独り思索に耽ってゐると、不意に闇尾超が現れてぼそりと呟くのを聞くやうな気がしたのである。
――私といった以上、私は私自身の手で私を抹殺しなければ、満足せぬ。
それが闇尾超の本望なのであらうか。結局の所、闇尾超は底無しの循環論法に陥ってしまひ、自縄自縛の中、どうにも身動きがとれずに、自棄(やけ)のやんぱちでこれ見よがしに自同律の不快を振り翳してブスリブスリとその切れ味鋭い刃で己を切り刻んでゐたのであらう。闇尾超にとっては自同律は不快ではなく苦痛であったのだ。痛みを忘れるために闇尾超は精神的自刃を毎日行ってゐたことは簡単に想像はつくが、それでは更に酷い痛みに襲はれるだけで、何にも解決しなかったに違ひない。それでも闇尾超は一時でも闇尾超であることに我慢がならず、倦むことを知らずに己の手で、己の精神をぼろぼろになるまで、日日、切り刻んで、それを少しの慰みにしてゐた。しかし、だからそれがどうしたといふのだ。闇尾超よ、自同律の苦痛なんて何も珍しいことではなく、極普通のことだぜ。それを何か特別な何かと勘違ひし、それは闇尾超独特の皮肉を込めたわざとの勘違ひをして、それを口実に己を自傷するのは現実逃避の一行動に過ぎぬ。
例へば時空間すらも己の存在に恥じてゐて、恥じ入るばかり故に時空間は絶えず変容し、時間のみを敢へて取り出せば、己に我慢がならずに憤怒に燃えてゐるから時間は流れるとしたならば、その先には時間が目指す”理想”といふのも烏滸がましいのであるが、それでも時間にしてみれば、存在の思ひもよらぬ帰結を目指して紆余曲折を経ながら”流れる”のであらうか。さうして存在は、森羅万象は、時間に翻弄され、時空間に弄ばれながら、存在もまた、そんな不合理で残酷極まりない時空間に順応するやうにと、尻を叩かれかちかち山の狸ではないが、兎に背負ってゐた柴に火をつけられ背に大火傷を負ひ、仕舞ひには惨殺される狸よろしく、此の世の森羅万象は世界に翻弄され、その挙げ句に憤死するのをぢっと待つのみの、世界にしたならばこれほど御しやすい存在もないのかもしれぬ。さうならば、存在はどうあっても世界に対して反乱の狼煙を上げるのが道理である。自同律の不快に端を発する憤怒は年を経る毎にその炎は燃え盛り、火炎の権化と化した存在は逆巻く炎に身を焦がしつつ、世界を焼き払はふとする筈である。仮にさうならないのであれば、それは存在としての怠慢であり、闇尾超も私も許し難い存在として唾棄するに違ひない。
森羅万象の憤懣は、然し乍ら、世界に対しては無力で、やはり世界に翻弄され続けながら、生き延びるのがやっとなのであるが、心の奥底で熾火の如くに燃え続けてゐる世界、または時空間に対する憤怒の火は、何時炎になってもおかしくないその時をぢっと待ってゐるのだ。それは星が大爆発してその一生を終えるやうに存在が滅亡する時、存在が絶えず抱へ込む憤怒の火はぼわっと一気に火勢を強め、大規模な手のつけられぬ山火事の如くに燃え盛る炎となって大爆発し、それは死の爆風として一瞬に全宇宙に燃え広がる爆風は尚も生き残る存在に対して少なからぬ影響を及ぼしては憤怒のRelayを行ふに違ひない。
自同律の不快は埴谷雄高の言であるが、闇尾超は思ふに自同律の不快ならぬ自同律の憤怒へと辿り着いた最初の人なのかもしれぬ。それはいひ過ぎかも知れぬが、しかし、闇尾超にとって自同律は快不快では最早済まぬのっひきならぬもので、己が此の世に存在してゐること自体激怒の因にしかならず、それは生きてゐることが憤怒でしかないといふ誠に誠に生き辛い、成程、闇尾超が己を絶えず弾劾してゐたのも解らなくもないのである。尤も、闇尾超にとって理想の自分といふものがあったかといふと、それはなかったやうに思ふ。唯、闇尾超は世界に翻弄される己が許せなかったのだ。そんな我が儘はこの不合理な世界では全く通用しないが、それではその憤怒の淵源は何に由来するのかと闇尾超は絶えず己に問ふてゐたに違ひない。それは元を辿れば闇尾超といふ存在に深く根ざしたもので、それは例へば闇尾超が幼少期に負った心的外傷なのかもしれず、それが時空間恐怖症の類ひであったならば目も当てられず、闇尾超の存在は絶えず恐怖で戦いてゐた筈である。もし時空間が恐怖の対象でしかなかったならば、それは発狂する以外どうしたらいいのだらうか。然し乍ら、闇尾超は確かに時空間恐怖症だったと思へる。それは闇尾超のあらゆる仕草から誰の目にも明らかだったのである。闇尾超が何気なく発した言葉に、皆驚いたものであった。例へば、
――何故ものは時空間を動けるのか?
などと、闇尾超は真顔でいふのであった。闇尾超にとってものが時空間を動けることが不思議でならなかったのだ。それも当然である。何せ闇尾超にとって時空間は恐怖の対象であり、その時空間をものが動けることは闇尾超にとっては謎でしかなく、どうしても腑に落ちぬ事象の一つなのであった。それ故に恐怖の対象に絶えず囲繞されてゐる存在のどうしやうもない居心地の悪さは、発狂せずば、憤怒にならざるを得ぬ。存在することが即ち憤怒でしかないのである。憤怒せずば、一時も時空間に対峙して世界に存在することは不可能に違ひないのである。時空間恐怖症といふ心的外傷を抱へてゐたであらう闇尾超は、絶えざる恐怖心から憤怒の人になってゐたのだ。どう足掻いても納得が行かぬことに対してそれには深く関はらぬといふ極普通の人たちに付和雷同することは己に対して不義を働くことであり、己の存在に対して正直だった闇尾超は、時空間恐怖症であることを隠さうとはしなかったのである。


七、 夢を見るといふことはそもそも特異点の存在を暗示させるものである


――三島由紀夫のやうに己の首が斬首される夢を見た。その時、私の首は一太刀では切り落とせずに、何度も何度も日本刀で切り刻まれ、やっとのことで胴体から切り離されたのだ。夢の中の私の分身はそれに対して何の疑問も抱かずに唯、指を銜へて、まるで他人事(ひとごと)のやうにその様を凝視してゐるのみなのであった。しかし、その後味の悪さといったならば、筆舌に尽くし難い。ところが、夢は夢の論理が何よりも優先するからこそ、つまり、私の意思とは無関係に、或ひは私は夢の論理に絶対服従故に夢の秩序が私に先立つ事態が進行するからこそ、尤も、私が見る夢でさへ、私は夢に対して何の疑念も抱かずにその不合理を受け容れてゐるといふ、唯単に眼前で進行する夢の事態を丸ごと受忍するからこそ、此の世に特異点が存在することを暗示するといへる。特異点とは説明するまでもないが、至極簡単にいへば、分数の分母を限りなく0に漸近させ、遂には分母が0になった途端に現はれるであらう摩訶不思議な世界のことをいふのであるが、分数の分母が0の時、それは数学的には定義できず未定なものとして、つまり、それが特異点の定義の一つであるが、私は特異点が出現したその時点で現出するであらう世界は夢に近似した世界だと看做してゐる。それは思ふに夢はそもそも因果律が破綻してゐるが、特異点でも因果律は破綻してゐる筈である。特異点は質料と形相の備はった形ある有が多分に無限大へと、つまり、この世の摂理からしてあり得ぬ有から無限大へのそれは到底不可能な変化(へんげ)できぬものへと存在が光速を超えた速度で爆発的膨脹をしていくことかもしれず、有が無限大へと超高速で膨脹していくといふことは、多分に特異点へと突き進むその場には、その前段階としてBlack holeが現はれ、Black holeとは巷間で語られてゐるやうに光すら逃れ出られぬといふことは、裏を返せばBlack holeは物質で充溢した世界といへ、また、Black hole内ではこれまた因果律が破綻しかけた世界であると想像すれば、その想像をすこぶる単純に数直線状に延長するが如くに想像を羽撃かせると、特異点では光が充溢して因果律が破綻した世界といふものと看做せなくもない。それは正(まさ)しく夢世界と相似形を成した世界といへ、夢を見られるといふことは、即ち特異点の存在を暗示するといへる。さうでなければ、「私」は夢に対して全くの影響力がなく、夢の論理に対して絶対服従する世界を表出できる訳がないのだ。然し乍ら、幻像を以てして特異点を語る虚しさにも言及しておかねばならぬ。夢の光景をして特異点の存在を暗示するとしかいへぬ口惜しさ。それは映像で以て特異点のなんたるかを語ってゐるのであるが、それでは、然し乍ら、何も語ったことにはならず、特異点といふものに全く漸近してゐないことに等しいのである。頭に過る映像に依拠せずに語らないことには特異点を取り逃がし、
――わっはっはっはっ。
と、嘲笑されるのが落ちなのである。映像のその先にある闇をして特異点も語り果せねば、特異点を取り逃がすこと必定である。須く文字にのみ頼るべし。


闇尾超は夢を使ひ古された襤褸布と同じく、現代ではもう夢神話は破壊され尽くされ、夢を語って何かを暗示させる文学的手法は藻屑と消え、夢そのものの神通力はもうないと嘗て述べてゐたが、夢が特異点を暗示させるといふ啓示を得たといふことは、闇尾超もやはり夢に弄ばれてゐて、ずっと夢の謎を脳科学とは一線を画した中で、その位相を見つけたくてうずうずしてゐたに違ひない。それが或る日、夢と特異点といふ一見すると似ても似つかぬものに結び付き、それがある種の確信に変はっていったのだ。その時の闇尾超の胸に去来したものとは何だったのだらうか。嬉しさはあったに違ひないが、それ以上に絶望しかなかったのではないだらうか。それは何故かといふと、所詮人間に「一≒無限大(∞)」を持ち切るのは酷といふことに闇尾超は思ひを馳せたに違ひない。無限大を単独者たる一存在者が――簡単に無限大とはいふけれど――無限大といふものの実相を想像できる人間が、果せる哉、想像の網に引っかかる程の想像力を持ち合せてゐるのか、甚だ疑問であるからだ。数学的には無限大の存在は排中律により証明されてはゐるが、それは、無限大が存在しなくてはをかしいといふことを間接的に証明してゐるのみで、直截、無限大の素顔を見たものはゐないのだ。そもそも素顔は有限のもので、無限大の素顔といふ表現は全くをかしなことで、さうだからこそ尚更、無限大は人間の想像力を遙かに超えたものなのである。
仮に闇尾超が無限大の尻尾を摑んだとしてもそれは限りなく夢幻(ゆめまぼろし)の類ひに近く、それを承知をした上で、夢の存在が特異点の存在を暗示させると大胆な仮説を闇尾超は立てて見せたのだろう。その真贋はともかく、闇尾超の慧眼は或ひは正鵠を穿ってゐるやもしれず、一瞬でも闇尾超の脳裏に無限大の幻影が過ったのは間違ひない。でなければ、闇尾超は或る確信を持って夢の存在が特異点の存在を暗示させると断言できる筈はない。しかし、闇尾超は幻影を以てして特異点を語るにはそれこそ語るに落ちるとも警告してはゐるが。ならば、闇尾超の導いた「夢の存在は特異点の存在を暗示させる」を私の思考の俎上に一度乗せなければ闇尾超に失礼といふものだ。
夢は私にとって夢魔の為すがままの或る意味最も私を疎外してゐる世界だと看做してゐる。喩へていふならば、これは闇尾超に失礼なのかもしれぬが、映像的な解釈で夢を紐解くと、巨大な水族館の水槽のやうに分厚くも非常に透明なアクリル板でできた巨大水槽に、これは不思議なことではあるが、闇尾超と同様に夢には確かに私の分身者の片割れが水槽内にゐて、そやつは夢魔の為されるがままに夢の秩序に絶対服従させられ、辱めを受け、それをアクリル板の外で、私のもう一人の分身者の片割れが唯見つめてゐるといふ、夢で私は二重に分裂した存在としてあるといへなくもないのだ。これは闇尾超も同じだったものと見え、夢では私といふ存在は分裂してゐるのである。そして、私の意識や夢での感覚は分厚いアクリル板を挟んで光速を越えた速さで内外を行ったり来たりして分厚い透明なアクリル板で隔てられてゐるとはいへ、夢では疎外されながらも徹底的に当事者といふ矛盾をいとも簡単に成し遂げてしまってゐる。さうだからこそ、私もまた、量子もつれを夢では起こしてゐて、光速を越えてアクリル板を隔てて存在する二重の私は、夢の主人公でありながら、その夢から徹底的に疎外されてもゐる二重感覚といへばいいのか、感覚の重ね合はせが起きてゐるのである。その二重感覚は時に私は分裂者として、時に一心同体であるかのやうなものとして感覚は奇妙なもつれ合ひを為して夢は私を翻弄し、そして、それをぢっと凝視してゐる見者としての冷めた私も同時に存在するといふ具合なのだ。これは多分闇尾超にもいへることで、夢に対して私と闇尾超の在り方は同じやうなものであったと想像される。
また、夢世界を形作る夢に存在するもの全てが、現実相の如き装置として夢では活躍する。しかし、夢に出現するもの全てのいづれもが、夢魔により夢に呼び出され、さうしてその存在感を見事に現実相に見せかけるといふからくりをやってのけるのである。そもそも、それでは夢に出現するものとは何なのであらうか。物自体ではないのは確かだ。それでは夢に出現するものどもとは何なのであらうか。それらのものどもは夢に固着してゐてアクリル坂の巨大水槽内の夢世界の私にとってそれは実感を伴った存在なのである。これが夢見の私をまんまと騙し果せるからくりであり、実感が伴ってしまふので、アクリル板の水槽のやうな夢世界の中の私はそれが夢とは気付かずにゐるが、ところが、もう一人の私の分身が夢が展開してゐる水槽の外で冷めた目をして夢を眺めてゐるので、水槽内の私もやがてそれが夢だと気付かされることになるが、夢は実感を伴ってゐる為にそれが中中受け容れられぬのだ。それでも夢に登場してゐるもの全てが、嫌らしくも終始私に現実相を開示する如くに実感が伴うので、私は統覚の誤謬を犯すのである。つまり、夢に登場するものは、私を夢世界に拘束する装置であり、或ひは統覚の攪乱を招いて一つの夢が終はるまで、ずっと私を夢魔に絶対服従させられるそのお膳立てであり、例へば、夢魔が表出する夢の舞台を「夢場」といふやうに名付ければ、夢場の存続を保証するのが夢を形作るもの全てであり、私は、それにまんまと騙されるのである。
ところが、その一部始終を冷めた目で見てゐるもう一人の私の分身の片割れは、夢場を一瞥するなり、そのちんけな夢場の装置に冷笑を浮かべながら、夢魔の為されるがままに翻弄されてゐる私をざまあみろとばかりに侮蔑してゐるのであらう、夢魔の私を操るその手際にやんやの拍手喝采を送りたげにしてゐるのもまた、事実なのである。或ひは精神分析学者のやうに夢には欲望、或ひは抑圧が顕はれるといふ意見もあるが、淫夢が見たいにもかかわらず悪夢を見ることが殆どの私にとってそれが欲望の顕はれとはどうしても認めることが憚れるやうな夢ばかり見てゐるので、フロイト大先生がいふやうには夢といふものはどうしても解釈できないのだ。そもそも私は無意識といふものに懐疑的であった。仮令、無意識といふ概念を認めるとしても、欲望と抑圧が夢で前意識の検閲から滲み出し、徹頭徹尾無意識が映像化されてゐるものであるにせよ、私が見る夢は悉く私を惨殺するものばかりで、夢の中で語る私の言葉に呼応して夢が変化する様を見るに付け、夢もまたLogosで始まり、惨殺されたときに発する、
――嗚呼。
といふ断末魔のLogosで終わる、終始言葉が夢の映像に先立つ私の夢はフロイト大先生の夢解釈からは外れてゐるもので、私を惨殺する夢ばかり見る私の欲望は自死といふことになるが、それが私が昼間抑圧してゐるものなのであらうか。私はこの期に及んでも生きたいといふのが真実だと思ひたいが、しかし、死を望んでゐるのであらうか。確かに私は不死身ではないのでいづれは死が訪れるだらうが、それでも少しでも長く生きたいといふのが私の本望なのだ。ところが、私は夢で悉く惨殺される。その私が惨殺される様を分厚いアクリル板の巨大水槽の夢世界の外で冷めた目で見てゐるもう一人の分身の私は、心の中では拍手喝采を送りたげにしてゐるといったが、しかし、夢世界の外部のもう一人の分身の私は、終始冷めた目で私が嬲り殺される様を見てゐるのであった。それが何を意味するのであらうか。ここで意味を問ふことは虚しい限りなのであるが、敢へて意味を問ふならばそれが私の欲望、或ひは抑圧された私の発露と仮定したところで、何の解釈にもならないのである。
さて、それはともかくとして、闇尾超がいふ夢の存在が特異点の存在を暗示するといふ命題の解決点は何処にあらうか。私が夢場では分裂してゐるといふことが、即ち夢場が特異点を暗示させるといふ結論を導くと仮定したところで、私には尚以て腑に落ちないのである。さうではあるにせよ、まづ、闇尾超がいふやうに夢を見るといふことが特異点の存在を暗示させるといふことが正しいと仮定しやう。さうすると私が夢に対して抱いてゐる分裂してゐる私といふ感覚は、正(まさ)しく特異点での去来現が滅茶苦茶な、それでゐて光速を超えて爆発的膨脹をする特異点ならではの特徴と仮定するならば、主体は特異点では分身の術を使ふが如く幾人にも分裂してはそれが一人物へと収束することを繰り返しながら、存在してゐる異形の吾ども、若しくは化け物の吾どもが常態であるといへなくもないことになる。つまり、特異点では、存在が化け物になるといふことであり、夢魔の生贄として分裂した私が差し出されるのは化け物の私であるといふことになる。夢場では存在は実のところ、現実相を喪失してゐて、つまり、質料と形相を最早失ってゐて、それはアインシュタインの特殊相対性理論のE=MC2により質料と形相を喪失した存在はEnergy体へと変化してゐるといふことで、それは詰まる所、私は、光り輝く化け物として、喩へていふなれば、巨大な巨大な巨大な人魂のやうなものとして私は夢場、即ち特異点に存在してゐるのかもしれぬのだ。そして、夢とはその巨大な巨大な巨大な人魂が映す影絵の如きものに違ひない。それを分裂した私は分厚いアクリル板の巨大水槽の夢場外でちんけな装置と冷笑してゐるのだ。同語反復になるが、夢場には巨大な巨大な巨大な人魂と化してゐるであらう私の光が映す夢幻の影絵が見えてゐるだけなのかもしれぬ。
さうすると、闇尾超の謂ふ夢を見られるといふことは特異点の存在を暗示してゐるといふことに繋がり、一応辻褄が合ふことになる。無理強ひもいいところであるが、確かに夢は特異点の存在を暗示させる造りになってゐるのかもしれぬ。


八、 透明な存在


――先日、幼子が斬首され、小学校の校門の前にその斬首された首が置かれるといふ痛ましい事件が起きたが、その犯人の中学生の少年は己のことを「透明な存在」と名指ししてゐた。馬鹿いっちゃ困る。透明な存在? その少年は己を透明な存在と名指せたことで悦に入り、得もいへぬ快楽の境地に惑溺してゐた筈である。その透明な存在を敢へて闇色に染めることで、幼子を斬首する凶行に及んだのである。闇色に染まらずしてどうして幼子の首を切断することができただらうか。透明な存在のその少年は闇色に染まることで、己の闇に巣くふ尋常ならざる己の欲望を知ってしまったのだらう。心の闇といふ言葉が巷間で喧しいが、心はそもそも闇であり、それすら解らぬ精神分析学者は哀れな存在でしかない。その少年は透明といひつつも、闇色に身を委ねたことで、人倫の禁忌を踏み越えて、さうして拓けたところに燦然と輝くその少年特有のLibido(リビドー)を見出したのだ。強烈な死体好事家としての己を見出したのだ。殺人に対して自刃の、つまり、死の衝動の疑似体験を重ねたかも知れぬが、疑似体験のその先に名状し難い性的衝動が、Libidoが開示されたのである。その少年は、幼子を殺害したときに何度も射精した筈である。それでは飽き足らず、更なるOrgasm(オルガスム)を味はひたくて血の臭ひに誘われるやうに幼子の首を斬首し始めたに違ひない。その少年は、幼子の首を刎ねながらこれまた何度も何度も射精し、快楽を貪ってゐたのだ。その時の恍惚状態はその少年がこれまで体験したことがない快楽であり、その興奮に吾を忘れて酔ひ痴れた筈である。射精したいがためにその少年は幼子の首を刎ねたのだ。死体を損壊することに快楽を見出したその少年は、夢心地の中で、己を満喫したであらう。死体の首を刎ねることで充溢した己を味はひ、何度も何度も射精するといふ悦楽に溺れながら、その少年は嗤って幼子の首を刎ねたことであらう。それの何処が透明な存在といふのか。


これに対しては闇尾超に一理ある。あの少年は多分に闇尾超がいふやうに殺人を犯すことでそれまで知らなかったLibidoを見出したに違ひない。所詮はあの少年はMasturbation(マスターベーション)がしたくて殺人を犯し、幼子の首を刎ねたのだ。つまり、Masturbationの権化と化して快楽殺人を犯したに過ぎないと思はれる。それまであの少年は野良猫などを殺して歩いてゐたやうだが、生あるものの命を詰むことであの少年は己の中で蠢くものの存在に気付き、生き物を殺す度にその蠢くものが血に飢ゑた吸血鬼の如くに殺戮を欲し、さうすることで、あの少年は自慰を重ねてゐたのであらう。そして、絶頂を知ってしまったあの少年は、一にも二にもMasturbationのことしか考へられず、到頭殺人を犯してしまった。幼子を殺したときの快楽といったらあの少年は言葉にできなかった筈である。その衝撃といったならば、もう抑へやうがなかったに違ひない。抑へられなかったが故に斬首に及んだのだ。Knife(ナイフ)で殺した幼子の首を一刺しする度にあの少年は絶倫者のやうに射精をしてゐたことだらう。首をKnifeで切り刻む度にあの少年は全身に電気が走る如くに絶頂を味はひ、その快感にあの少年は全身を投身してしまったのである。あの少年は徹頭徹尾己の快感を貪りたいがためといふ超利己的な欲望にのめり込んでゐた筈である。つまり、欲望で自己完結してしまった哀れな存在であることを知らぬが仏とばかりに底無し沼の底へと辿り着いたことで、あの少年は、
――Eureka!
と、心の叫びを上げたに違ひないのだ。天にも昇る心地といふものを殺戮をすることで知ってしまったあの少年は、全身之欲望と化してギラギラ光る上目遣ひの眼差しを世間に向けながら、異様な妖気を放ってゐるのも知らずに街中をほっつき歩き、頭は殺戮に伴ふ射精といふ絶頂のことで一杯であった筈である。その存在を異様といふ言葉で片付けるのは忍びないが、異形の吾があの少年より先んじてしまったのであらう。そんな奇妙な存在だとは努知らず、あの少年の本質は丸ごとMasturbationになってしまひ、実存は本質に先立つに非ず、欲望が本質に先立つ存在として、動物をどう意味づけるかは難しい問題であるが、その問題は一まづ置いておいて、動物に失礼を承知でいへば、異様な動物となったのである。最早人間であることを断念したのだ。異形の吾があの少年を呑み込んで、獣として生存してゐたのである。
さて、ここでアポリアの出現である。それでも神神は、八百万の神神はあの少年を見捨てないのであらうか。「にんげん」を已めたあの少年に対しても神神は救ひの手を差し伸べるのであらうか。とはいへ、そもそも八百万の神神は異形のものである。この問ひはドストエフスキイの二番煎じにも劣る問ひでしかないが、しかし、神神の問題はどうしても持ち上がるのだ。何故なら、「にんげん」を自ら已めたものにも神神は慈しみの眼差しで「にんげん」を已めたものに対しても、見捨てないのだらうか。中国の影響でこの国には閻魔大王がずでんと存在してゐるものと看做されてゐるが、その論理でいへば、「にんげん」を已めたものは有無もいはずに神神に見捨てられる。それがこの極東の島国の道理なのだ。その少年には、地獄が待ってゐる。これがこの国の道理なのだ。神神は見捨てるが、親鸞を出すまでもなく、この極東の島国では人間社会はその少年を見捨てはしないだらう。この島国では人間社会が見捨てて、「死刑」に処せられない限り、人間社会は犯罪人を見捨てないのだ。尤も、その少年が死したときに閻魔大王が現はれ、地獄行きを告げるのは間違ひない。
しかし、この島国の人間社会は寛容かといふとそんなことはなく、世間は途轍もなく世知辛いのである。異物は排除されるのだ。それでも異物が存在可能な社会が重層的に存在し、何処かしらに異物と烙印を押されたものでも生きていける場が形作られてゐる。つまり、綺麗事のみでは人間社会は存続できなる筈はないのである。本音と建前、村社会、島国根性など、それは皮肉を込めていはれるが、この島国ではそもそもが重層的な社会構造を人間社会はしてゐる。だから、幼子を殺戮し首を刎ねたその少年の居場所は必ずあるに違ひない。つまり、その少年の罰は閻魔大王に委ねられ、宙ぶらりんのまま、その少年は罪を背負って生きていく外ない。生きてゐるうちにその少年がもしも覚醒したならば、或ひは閻魔大王のお目溢(めこぼ)しに合ふ可能性は残されてゐなくもないが、地獄行きを認識しながら生きていくのだ。浄土への道を自ら断ったその少年は、果たして地獄を背負ってでも生きていけるかどうかはその少年次第である。


九、Cogito, sic Im ‘sollicitus. Et superabit. (吾思ふ、故に吾不安になる。そして、吾を超える。)


――デカルトとのCogito, ergo sum.は誤謬である。何故なら吾思ふことが、吾の存在を定義づけることにはちっともならぬからだ。吾は思ふはいいとして、その思ってゐるものが吾であるといふ確信は必ずしも得られぬものである。条件反射的に吾ありには繋がらないのである。なんて天邪鬼だらうと吾ながら苦笑する外ないが、でも、どうあってもCogito, ergo sum.は受け容れられぬ。それをいふなら、Cogito, sic Im ‘sollicitus. Et superabit.といったほうが余程しっくりとくる。それは何故か。それはいふなれば、思ひに思ひ倦(あぐ)ねて思考が堂堂巡りを繰り返すうちにその堂堂巡りを繰り返す思考にはちょっとづつ差異が生じるのが必然であるが、その状態の時は誰しもが極度の不安の中にあるけれども、ところが、ある時、不意にそれまで堂堂巡りを繰り返してゐた思考は、あらぬ方向へとぴょんと飛躍し、自分でも思ひもかけぬ思考の扉が開き、神の啓示を受けたかのやうにそれまで堂堂巡りを繰り返し思ひ倦ねてゐたことの答へに何故だか辿りつくこと屡屡である。それは余りに摩訶不思議なことであるが、吾思ふといふことは、吾は、不安故に、或ひは思ひ倦ねてゐる故に思ふもので、その思ふといふ行為を通して吾は思考の堂堂巡りといふ渦動に呑み込まれ、息つく島もなく思考の渦動に溺れかかるのであるが、火事場の馬鹿力ではないけれども切羽詰まって南無三、と思ったときにズボズボと思考の渦動に呑み込まれ底へ底へと押しやられたときにぴょんと思考は跳ね上がり、宙空に飛び出すのである。さうして堂堂巡りを繰り返してゐる思考を第三者的審級の位置で見下ろしながらも思考はすかさず天を見上げて、堂堂巡りを繰り返してゐたときには思ひも付かぬ閃きを得るのである。この時、吾は吾を超えてゐるといへる。さうでなければをかしいのである。思考は絶えず吾を超えやうと吾である不安の中で藻掻いてゐるのだ。或ひは未解決問題に対して考へに考へ倦ねた結果、さうして嫌といふほどに堂堂巡りを繰り返し、遂にはその思考の渦動に呑み込まれるのであるが、あな不思議、追ひ詰められた吾の思考は、ぴょんと跳ね上がり、宙へと飛び上がる。その時、思考は吾を追ひ越してゐて、デカルトのCogito, ergo sum.では収まりきれぬ吾の様態が存在する。故にデカルトのCogito, ergo sum.は誤謬である。正しくはCogito, sic Im ‘sollicitus. Et superabit.といはねばならぬ。


闇尾超は生前、デカルトは嫌ひだといってゐたが、吾思ふに不安を見、そこに思考の堂堂巡りのどうしやうもない渦動を見、さうして思考が不意に飛躍するその不思議な経験を而してCogitoが吾を超える様を結論として導いてゐたか。確かに思考するとはどうあっても堂堂巡りの土壺に嵌まらずしては二進も三進もゆかぬ性質をしてゐて、どん詰まりのどん詰まりで閃くものには違ひない。闇尾超のいふ通り思考は絶えず吾を超えやうと藻掻き苦しみ、苦悶の果てにやうやっと閃くものであるが、それをして闇尾超はデカルトに一杯食はせて見せたか。しかし、闇尾超がCogito, sic Im ‘sollicitus. Et superabit.といふ結論へと至るには何度血反吐を吐いたことだらう。それは想像に難くない。闇尾超のCogito, sic Im ‘sollicitus. Et superabit.といふ結語にはある覚悟が感じられる。それは死しても尚、魂魄は命脈を保ち、搏動してゐるとこの闇尾超のNoteが饒舌に語ってゐることからも解る通り、デカルトに一杯食はせたときの闇尾超は、既に死を覚悟してゐたのだらう。死を覚悟したからこそ、闇尾超はNoteを書き出し、私にそれを残したのだ。さうして私は闇尾超の苦悶の思考に引き回され、かうして闇尾超のNoteを読みながら沈思黙考を迫られる。さうせずば、闇尾超が今にも化け出て私を呪ひ殺すに違ひない。Cogito, sic Im ‘sollicitus. Et superabit.か。森羅万象が変化して已まぬ此の世界において、絶えず己を超えやうと何ものも藻掻き苦悶するとは、闇尾超の口癖だったが、多分、闇尾超は森羅万象が沈思黙考をしてゐて、思考のどん詰まりの渦動の中に溺れかけながら、やっとのことで己の存在を保ってゐると考へてゐたのかもしれぬ。さうであれば、闇尾超の到達した境地はいづれのものも皆、Cogito, sic Im ‘sollicitus. Et superabit.の様態にあり、さうして時が流れるとの考へにまで至ってゐると考へられなくもない。仮にさうならば、思考とは正(まさ)しく時間の別名で、時間が流れるところ全て遍く何ものも皆、思考してゐるといふ結論に闇尾超は至ったのではなからうか。森羅万象は思考する。これが闇尾超の思ひ至ったことなのだらう。然し乍ら、そもそも森羅万象が思考するとは何のことだらうか。路傍の石を取り上げてみるが、その石もまた思考してゐると看做せる覚悟が私にはあるのだらうか。確かに万物流転す。世界は一度時間が流れ出したならば、未来永劫に亙って已むことを知らぬが如くに変化して倦むことを知らず。存在はその世界に翻弄され、世界の現象に、ある時は丸呑みされながら、存在自体が変化せざるを得ぬ状況へと投企されるが、外的であらうが内発的であらうが、存在は千変万化し、或ひは最期は無へと突き進んでゐるやもしれぬ。闇尾超はそれは全て遍く思考の為せる業だと看做したに違ひない。もの皆、つまり、存在とは何ものであらうとも思考するものであると。すると、時間もまた、去来現が滅茶苦茶な筈で、時間が数直線のやうに表せるのはそれは時間のほんの一面しか捉へてをらず、時間もまた、思考のやうに過去と現在、過去と未来、未来と現在などを往還してゐて、とはいへ、「在る」と現在看做せてしまふのは、存在は現在に常に拘束されてゐると看做せなくもない。つまり、潜水艦の潜望鏡のやうに存在はちょこっと存在のほんのほんのほんの一部だけは現在といふ事象に顔を覗かせてゐるが、その内実は去来現を自在に飛び交ふ思考=時間がそのどでかい図体を潜水艦本体のやうに去来現に隠してゐるのではないか。ここで物理学のストークスの定理を持ち出せば、円運動をしてゐると、その法線上の運動に変換可能なことから、思考=時間が堂堂巡りに代表される円運動をしてゐると、図らずもその法線上に線上の、つまり、潜水艦の潜望鏡のやうな事象が現はれ、それが海面上を、つまり、現在に軌跡を残しながら航行するが如くに思考=時間は現在に在る存在とは直角を為す不可視の運動体として大渦を巻いてゐると看做せるのではなからうか。そして、闇尾超はその大渦をして杳体と名指してゐたのではなからうか。闇尾超の目には何を見ても其処に次元事象の違ふ大渦の渦動が見えてゐたのではないのではないだらうか。さうならば、全てにおいて合点が行く。だから、Cogito, ergo sum.ではなく、Cogito, sic Im ‘sollicitus. Et superabit.なのか。


私は其処で、闇尾超のNoteから目を離し、天井を見上げた。闇尾超にはこの天井にも大渦を巻いた渦動が見えていたのか。闇尾超よ、それは物自体へ限りなく漸近したといふことではないのか。闇尾超がいってゐた杳体の正体とはカントの物自体に限りなく近しいものだったのかもしれぬ。闇尾超がもうこの世にゐないのが口惜しい限りだ。もっと彼と議論を重ねておけばよかった。後悔先に立たずとは将にこのことで、私は恥ずかしながら、涙を流してゐたのである。


十、 光に対して希望を条件反射的に見てしまふといふ思考は誤謬である


――希望とは闇に紛れ込んでゐるものであり、闇の中に灯る御灯(みあかし)の光に希望を見てしまふ思考はそもそもが誤謬である。光に騙されてはならぬ。闇の中で一点だけ灯る御灯に目の焦点が合ふといふアプリオリな、つまり、生理現象に釣られるやうにして光の背後に存在が控へてゐるからといって、光に希望を見るのは誤りである。闇の中にこそ深海生物のやうなGrotesque(グロテスク)な異形のものがうじゃうじゃゐるそれらが希望の正体であり、光の下で均整な姿形をした一見すると「美」を纏ってゐるやうに見えるものは曲者で、真善美に惑はされてはならぬ。確かに陽光の下、自然は美しく輝いてゐるが、だからといって、自然が存在の希望を受け止めてゐるかといふとそんなことはなく、むしろ自然は穏やかな表情を見せてゐるのは僥倖なことで、自然は何かにつけて存在に牙を剥き、それは凄まじいものである。一度見せた凶暴な自然現象は、何年にも亙って爪痕を残し、例へば人間に限れば、日常を取り戻すのに希望が見出せず、自然に襲はれたときは茫然自失に陥るのがこれまた自然の道理なのだ。さうして絶望の中、一寸先は闇といふ具合に人間は途方に暮れる。この時の状況が余りにも強烈なので闇にではなく光に希望を見出さうと、つまり、それは「希望の光」と呼ばれるのであるが、これが自然の惑はしでしかなく、光明に希望を見ることは悪魔の囁きにも似て土壺に嵌まる端緒になり得るのである。つまり、闇の中に灯る光は周りを見渡せなくするし、視野狭窄に陥る蓋然性が高いのである。さうなると己が間違った道を歩んでゐるかどうか判別できなくなり、大概は直感に頼り、残念な結果に終わること屡屡である。雲間から一筋の光が指す光景は珍しくもないが、しかし、自然の恐ろしさを刷り込まれた存在は、その一筋の光に希望を重ねてしまふ悪癖がある。これは矯正されるべきもので、希望は闇にこそ遍く同確率で鏤められてゐて、存在は闇に鏤められた希望を引っ摑んで闇を例へば実体が姿を隠してゐることから虚数の世界と看做せば、闇には闇に隠れた実体群で充溢してゐて、存在は闇を引っ摑んで無理矢理にも虚数の世界の闇に隠れた実体を触感で以て存在を認識し、さうして闇に穴を開けて、光が差し込んでくるのであるといへる。


――分け入っても分け入っても深い闇
闇尾超


――趨暗性が強い私は、闇と光を選ぶといふ段になると必ずといっていひほど闇を選ぶのだ。これは生まれ持った天稟のものに違ひなく、闇の中にゐると落ち着く。これは幼き頃から感じてゐる、陽光下の息苦しさに由来するものであった。幼き頃は何故息苦しいのか解らずにいつも泣いてゐた。その息苦しさが何に由来するのか段段と解ってくると、陽光の抑圧ぶり、それは暴君のそれに近しいものであることが解ってくると、尚更私は光を厭ふべきものと看做したのである。それは何故か。私には陽光下の存在――存在なんて言葉は後に知ることになるのであるが――が、「それ」であることを強要されてゐるとしか思へなかったのであった。陽光下では存在は逃げやうがない。「それ」は徹頭徹尾「それ」であらねばならぬ。つまり、陽光下では私は私であることを強要されるのだ。それが息苦しさの根本理由であった。埴谷雄高はこれをして自同律の不快と名指して見せたが、しかし、それは思春期で大概は吾の有様に見切りをつけて過ぎ去る一過性のものに違ひないのであるが、私の場合は、私であることの息苦しさは今以て消え去ることがない大いなる蹉跌であり、其処から一歩も抜け出せぬのである。息苦しさには時空間が私の周辺で歪み、キリキリと私を締め付けるやうに感じられるやうになったことで、その束縛感は更に増幅され、それに対してはもう、お手上げなのであった。だから、私はそれが嫌で昼間は寝てゐて夜になると起き出す昼夜が全く逆転した生活を送るやうになったのである。
乖離性自己同一障害。私はこの私の趨暗性をさう名付けて遣り過ごさうとしてみたが、全ては無駄であった。それもこれも光に正義があると刷り込まれてゐた結果の惨敗なのである。それに気が付くまでに何年かかっただらう。結局の所、私が辿り着いた結論は光に希望はないといふことなのであった。希望は闇にあるとコペルニクス的転回を行うことで、蹉跌が瓦解したのである。蟻の一穴ではないが、一度瓦解を始めると全ては崩落し、成程と全てに合点が行くのであった。
故に光に希望を条件反射的に見てしまふ思考は誤謬である。この結論に至ることで私は救はれたのであった。


闇尾超の光嫌ひは有名で、趨暗性といふ言葉は闇尾超にこそ当て嵌まる言葉であり、何故闇尾超が光を嫌ってゐたのかといふことは知らなかったが、さういふことであったか。成程、もう消えかかってゐる記憶を弄ってみると、幼き頃の闇尾超は確かに年がら年中泣いてゐた。自分でも何故泣いてゐるのかその理由が解らないらしく、闇尾超ばかりでなく、周りの大人たちも皆戸惑ってゐたのを覚えてゐる。後年闇尾超はNoteにも書いてある通り、学校にも行かず、昼間は寝てゐて夜になると活動を始める昼夜逆転の生活を送ってゐたが、皆はそれを自堕落なためといって闇尾超に対して眉を顰めてゐたさうだ。しかし、それは間違ひであった。闇尾超は光の下では否が応でも何故だか解らぬがとことん嫌ひな「私」と対峙することになり、それに堪へられなかったのだ。それを闇尾超は陽光の暴君的な抑圧と呼んでゐるが、存在がそれであることを強要される光の下を極度に嫌ってゐたことになる。それに対して息苦しさを覚え、それに加へて時空間がキリキリと締め付ける感触に悩まされてゐた闇尾超は、当然の帰結として、光に希望を条件反射的に見てしまふ思考は誤謬であるといふ結論へと至ったのであった。コペルニクス的転回か。闇尾超がいふ通りだとすると、希望は闇では遍く鏤められてゐることになり、また、闇尾超は闇を虚数の世界とも規定してゐるが、これは私の考へと同じである。その虚数の世界に遍く鏤められた希望とはのっぺらぼうの眷属なのだらうか。何故のっぺらぼうが出てくるかといふと、闇尾超がいふ希望が闇といふ虚数の世界に遍く同確率で鏤められてゐるといふことは、どうしても私の思考の悪癖からのっぺらぼうを想像してしまふのだ。しかし、闇に希望が遍く同確率で鏤められてゐるとは限らない。それは斑に鏤められてゐると考へられなくもないのである。何故なら、闇にはものとして隠匿された存在も秘められてゐて、さうすると闇には見えぬながらも確かに存在してゐるものがあり、闇に遍く希望が鏤められてゐるとはいひ切れないのである。とはいへ、闇尾超は存在に対してさう述べてゐるのではなく、飽くまで希望に対して述べてゐるので、或ひは闇尾超のいふ通り希望は闇の中に遍く同確率で鏤められてゐるとといふ考へも全く否定できるものではない。
仮に闇尾超のいふ通り、光にではなく闇に遍く希望が鏤められてゐるとすると、闇の中で悪戦苦闘してゐる「私」は、希望の中で悪戦苦闘してゐることになる。それは唯、希望が見えてゐないだけで、希望は絶えず「私」にぴたっとくっ付いてゐて、闇へと手を伸ばせばすぐにでも希望に手が届くことになる。しかし、現実はそんなことは決してないのだ。闇に手を伸ばしても希望は摑める筈もなく、その行為は虚しい結果を残すだけといふのが現実ではないであらうか。ここで、思考の相転移といふ考へを持ち込んでみる。闇の中で希望が全く見えずに悪戦苦闘、試行錯誤を何度も何度も何度も繰り返す中で、「私」はさうしてなんとか希望を見出すこと屡屡である。それは思考が相転移を起こしたと看做せないだらうか。思考の相転移とは、私論に過ぎず、闇尾超の思考の堂堂巡りの末にどん詰まりに追ひ込まれた思考はぴょんと跳び上がり第三者的審級の位置に飛び出るといふ思考に似てゐなくもないのであるが、思考は悪戦苦闘、試行錯誤を何度も何度も何度も繰り返すうちに相転移を起こすのである。相転移を起こした思考はそれまでとは全く違ふ思考の断片や端緒が見え出し、思考の仕方すら変はるのである。然し乍ら、一度の思考の相転移では未だに希望の欠片すらも見出せずに、また、只管に試行錯誤を何度も何度も何度も繰り返すことになる。さうするとまた、思考は相転移を起こし、それまでには全く見出せなかった思考の地平が拓かれるのであるが、それでも未だに希望は見出せない。藁をも縋る思ひで試行錯誤を繰り返し、何とかこの錯綜し混濁し澱んで腐りきった溝(どぶ)水(みず)の如き状況から抜け出さんと藻掻き苦しむ中で、再び思考は相転移を起こす。さうすると、「私」は思考の相転移で変はった思考の欠片や断片の変質により、やうやっと希望の端緒を見出すのだ。そこに至るまでの試行錯誤の繰り返しの失敗の数数は山のやうに堆く積まれ、それに倦み疲れずに試行錯誤を繰り返し、藻掻き苦しむことでやうやっと希望の端緒が見えるのである。ここでいふ思考の相転移とは、思考の仕方の変質を意味するばかりではなく、思考の断片や糸口も全く変容するその様を称して思考の相転移と呼んでゐるのであるが、不意に思考ががらりと変はるといふことはそんなに奇異なことではなく、極普通の出来事として誰にも思ひ当たるものがある筈である。闇尾超がコペルニクス的転回と呼んだ思考の転回は、この思考の相転移のことであるといってもをかしくない。


十一、私を摑まへることは不可能である。何故なら私を摑まへやうとするとハイゼンベルクの不確定性原理が立ち塞がるからである。


――私が私を摑まへることは不可能である。何故なら私が私の内部を分け入って私を摑まへやうとしても私に対してもハイゼンベルクの不確定性原理が立ち塞がり、私を摑まへたと思っても、それは曖昧模糊とした私に過ぎず、私を確定できぬのである。もし、私なるものが確定して捉へられてゐると思ってゐても、それは私なるものの虚像であって私とは似ても似つかぬもので、私らしきものがゐるのみである。何故ハイゼンベルクの不確定性原理が立ち塞がるかといふと、私なるものを摑まへやうとするとき、私なるものは一度たりとも静止したことがなく、それを無理矢理静止させて私なるものをして私だと名指したところで、それは量子と同じく位置が確定できぬやうに私もまた確定できぬ類ひのもので、もしも私が確定できたといふのであれば、それは絶えず蠢き隠遁の術を使って頭蓋内の闇――私はそれを五蘊場と名付け私が現はれる場として規定してゐる――のいづこかに姿を晦ましてゐる筈で、頭蓋内の闇、即ち五蘊場に神出鬼没に出現する私は、捉へどころがないのが実態である。私を捉へる陥穽など五蘊場の彼方此方に罠を仕掛けたところで、五蘊場の私はいづれの罠もするりと擦り抜け、五蘊場の私に哄笑させるのが関の山である。それでも私を摑まへてゐると言ひ張るのであれば、それは私なるものの死体をして私といってゐるだけのことで、それは全く話にならぬ。私を摑まへやうと或る閾値を超えると私は忽然と茫漠として捉へどころがなく曖昧模糊としたものとなり、私を捉へることは不可能なのである。五蘊場における私は素粒子的な存在と看做せなくもなく、私は決して連続的ではなく、ひょいと身を躱してはあらぬ吾に姿を変へること屡屡で、その不連続な吾の在り方はいつかは吾は吾ならざる吾へと変容するべきその予行練習ともこれまた看做せるのだ。吾もまた、私であることに我慢がならず、絶えず憤怒の中にあるのを常としてゐて、憤怒の炎で吾の陽炎が揺らめき立ち、大概はその揺らめき立つ陽炎をして私と名指してゐるに過ぎぬ。仮に本来の吾といふものがあるとして語れば、憤怒の炎で燃え盛った吾は、ゆらゆらと揺れる人魂の如きものとして反物質の存在形態と同じく「反闇」としてその輝きは、周りを照らすことはなく、憤怒の炎で燃え盛る吾のみに収束する不可思議な光であり、Black holeがシュヴァルツシルトの事象の地平面では闇と見えるが、その内実は想像するに光が充溢した強烈な光が内向すると看做せると仮定すれば、反闇の光はBlack hole内部同様に内向する光で包まれてゐるのだ。その内向する光を纏った反闇の本来の吾は、光に包まれながら全く見えぬのである。さう看做せば、そもそも吾の捕獲を目論むこと自体無駄足なのである。


闇尾超も吾を捉へることはハイゼンベルクの不確定性原理によるものと看做してゐて、これまた偶然にしては出来過ぎであるが、頭蓋内の闇を五蘊場と名付けてゐたとは、なんといふ巡り合はせだ。闇尾超は弛まず吾の捕獲を目論んでゐたのだらう。然し乍ら、それは悉く失敗に終はり、ハイゼンベルクの不確定性原理を持ち出し、反闇なる考へに思ひ至ったに違ひない。確かに私が吾を摑まへやうとすると、此方の目論見を見透かしてゐるかのやうに悉く失敗に帰す。これは闇尾超のいふ通りなのだ。五蘊場に存在するであらう吾なるものは、私は異形のものとして看做してゐる。闇尾超同様に私は敢へてそれを闇尾超とこれまた同じく異形の吾と名指してこの私とは似ても似つかぬGrotesqueなものとして或る意味異形の吾を見下すかのやうに看做してはゐるが、それは裏を返せば、異形の吾に畏怖を抱いてゐることに外ならず、尤も、私も異形の吾を見たことはないのだ。見たことがないものに異形の吾と名付けて悦に入ってゐるところもなくはないが、しかし、この全く見えぬ異形の吾は、磁石のS極N極ではないが、悉く私とは反発し、私と乖離してゐるのは間違ひない。闇尾超がいふ乖離性自己同一障害といふことはよく解るのだ。ハイゼンベルクの不確定性原理か。成程、異形の吾を追へば追ふほど、或る段階、闇尾超はそれを閾値と呼んでゐるが、それを超えるともう雲を掴むやうに茫漠として異形の吾の尻尾すら見つかる気すらせず、茫然自失するのである。吾を見失って茫然自失するとは変なものいひだが、五蘊場の何処かに風穴でも空いてゐるのか、渺渺たる時空間へと通ずるそれはひゅうひゅうと幽かな風音を立ててゐて、五蘊場にはその幽かな風音だけが響いてゐるのであった。そんなことばかりなのである。毎度、異形の吾を摑まへ損ねては茫漠たる、或ひは渺渺たる五蘊場の闇の中で、私はぽつねんと独り孤独に苛まれつつも、にやりと嗤ってはその孤独を噛み締めながら、私から逃げ果せた異形の吾のその狡猾さに舌を巻くのであった。それが、私と異形の吾との関係の全てである。


十二、地獄は復活させねばならぬ


――浄土が天国といふものに取って代はって久しいが、再び浄土と地獄は復活させねばならぬ。特に寂れてしまった地獄は是非とも復活させねばならぬ。それは永劫といふ観念と深く関係してくるのであるが、地獄がなければ未来永劫といふ観念は羸弱(るいじゃく)なものに成り下がるのである。それは何故かといふと地獄こそが未来永劫といふ観念を支へる根本だからである。どうして根本になるのかといふと、地獄に堕ちたものは未来永劫意識を失ふことなく地獄の責め苦を受け続けねばならぬからである。地獄の責め苦を受けてゐる途中に意識を失ってしまったならば、それは最早苦悶ではなく無痛状態に終はってしまふからである。それでは責め苦にならぬだ。それ故に地獄に堕ちたものは未来永劫意識を失ふことなく、地獄の責め苦を受けねばならぬ。これの何処が永劫に繋がるのかといふと地獄が未来永劫存在するといふことで、現存在はやうやっと己を律し倫理的に現世を生きやうといふ自覚が芽生えるのである。刹那主義や相対主義などの悪魔の囁きに耳を貸さずに生きるには地獄が厳然と存在せねばならぬのだ。ただし、現代においては輪廻転生は許されず、地獄に堕ちたものは未来永劫地獄の責め苦を受け続けるのである。其処には救ひはない。地獄の服役期間などといふ生易しいものは存在せずに一度地獄に堕ちたならば、二度と這ひ上がれぬ形而上学的な世界として復活しなければならぬ。地獄の恐怖政治が罷り通る現世でなければ、享楽的な現世に胡座を舁いて「楽」を貪り喰らふ自堕落な存在に満ち溢れ、人間中心主義といふとんでもない世界が継続し、人間以外は絶滅して行くといふ死屍累累の山が堆く積み上げられるとっても窮屈な世界が展開する筈である。そんな現世では脱人間を声高に叫ぶ新興宗教が勃興し、再び宗教に振り回される絶望的な世界が巻き起こるに違ひない。さうならないためにも輪廻転生がなく未来永劫地獄に堕ちたものの復活は最早ないといふ救ひやうのない地獄の復活が望まれる。其処は奈落のまたその下に位置する新しい地獄で、この此の世への復活がぶち切れた地獄の再生は現世での現存在が「自由闊達」な生が保証される最低条件なのだ。何故自由闊達な生を保証する最低条件かといふと現代のこの島国での倫理の最後の砦は「他人に迷惑をかけぬ」といふことで、この倫理観の羸弱さは言わずもがなである。何故なら地獄がないことで、「誰でもよかった」といふ殺人が余りにも多く、それは他人に迷惑をかけぬといふことと表裏一体なのである。更にいへば猟奇的な殺戮もまた、余りにも多過ぎるのだ。死体損壊もまた、余りにも多いのだ。死者への冒瀆が過ぎるのだ。それを止めるのは復活のない未来永劫責め苦が続く地獄の再生が必要なのである。その地獄の恐怖政治が現世の再生の唯一の道のりである。


地獄の再生か。闇尾超らしいな。闇尾超の頭には魂の未来永劫の存続があるに違ひない。五蘊場に存在すると看做してゐる吾の永続に己の死後を託したのであらう。このNoteには確かに闇尾超の吾、或ひは魂は生きてゐてさうでなければかうして私の心を揺さぶりはしない。このNoteには言霊として闇尾超が存在してゐるのだ。そのために、闇尾超は過去には存在しなかった未来永劫地獄に堕ちたものは救はれない地獄の再生を己の永劫の存続の担保にしてゐるのだ。そこには早逝することに対しての闇尾超の忸怩たる思ひが如実に表はれてゐて、多分、闇尾超は死後、己は地獄にも浄土にも行かぬ未来永劫に彷徨へるものとしてこの地上に留まりたかったのかもしれぬ。地獄も魂の彷徨も浄土も全てが永劫といふ位相で見ればいづれもが断絶してゐて、闇尾超は何としてでも死後の此の世を未来永劫彷徨ひながら、宇宙顚覆の宿願を遂げたいのに違ひない。しかし、闇尾超よ、お前の宇宙顚覆といふ宿願に憎悪以外何があるといふのか。仮に宇宙顚覆に存在革命などといふ取って付けたやうな崇高な考へがあるのであれば、そもそもがインチキだ。埴谷雄高の言ではないが、「インチキをでっち上げる」といふことに血道を上げることにお前の魂の願ひはあるのか。泰然自若としたこの壮大無敵な宇宙をインチキを以てしてその存在根拠の足を掬はうとしてゐるのか。念じ続ければ或ひは宇宙が素っ転ぶとでも思ってゐるのか。全てが不合理だ。へっ、今思ひ出した。さういへば闇尾超は宇宙を認識するには不合理から始めなければならぬといってゐたっけ。闇尾超は全ては承知の上か。それでも尚、宇宙顚覆を企てなければならぬ根拠は何か。闇尾超にとってそもそも宇宙とは闇尾超といふ存在を闇尾超たらしめてしまふことに対する已むに已まれぬ不服従の証だったかもしれぬな。この不愉快を齎す宇宙こそが顚覆されるもので、宇宙への不服従を言挙げした闇尾超は森羅万象を代表して人身御供になったのだらう。さうでなければ、闇尾超のこと、己の死を受容できる筈はないではないか。無念を晴らすためにも闇尾超は未来永劫に亙って輪廻転生せぬ地獄の再生を目論んだに違ひない。


十三、実念論私論


――ソクラテス、プラトンに系譜を持つ観念実在論としての実念論とは何の関係のない「念が存在に先立つ」といふ大義名分を掲げた実念論を私は信ずる。さうでなければ、森羅万象が千変万化するこの世界の有様が説明できぬ。念が存在に先立つことでのみ、ちんけな吾からの脱出が可能で、そもそも念は自在である。自在な念に追ひ付かうとして吾は変化(へんげ)を重ね、それでも全く追ひ付けないからこそ吾の存在価値があるともいへる。それは世界に順応するためにはどうあっても念が存在に先立ってゐなければならぬ。目眩く変化する世界に対して悠長な吾に存在を任せてゐては死滅するのが落ちである。念により吾は尻を叩かれないことには変化しやうとはしない。それは今ある世界に対して吾は順応してゐるから胡座を舁き、例へば世界が急激に変化したとき、変化する前の世界に最も順応してゐた存在がまづ、滅んで行くのは世の必然である。世界の変化に絶えず存在は先んじてゐなければ、存在はサルトルのいふやうに偶然の必然に帰すのみである。それでは存在の存続は覚束なく、激変する世界、若しくは自然の中で、存在を存続させるには絶えず変化を渇望してゐる念の存在が決定的な意味を持つのだ。念が存在に対して先んじてゐるからこそ、激変する世界の中で、生き残る存在は必ず存在してゐて、それが路傍の石であっても激変する世界には順応してみせるのだ。況して生物においては何をか況や。いづれの存在、つまり、森羅万象は互ひに念が先んじてゐることで世界の様相は渾沌の坩堝と化し、その中で、念が先んじてゐない存在は死するのみである。念が複雑に絡み合って世界の渾沌が生じてゐると考へれば、吾先を争って存在に先立つ念により、見事に変化して見せて渾沌の世界に絶えず順応するのである。そして、念は一度出現すれば、それは未来永劫に亙って存続するに違ひない。否、それは根拠薄弱だ。さうあって欲しい。念は未来永劫に亙って存続して欲しい。髑髏の五蘊場に留まるも善し、髑髏の五蘊場から解放されて、この世界、或ひは宇宙を自由自在に飛び回るも善し。
最近、死に行くもの、若しくは死したものたちが、感応してならないのだ。誰だか解らぬが多分、死に行くものなのだらう。私の五蘊場に死に行くものの念のカルマン渦が生じるのだ。それはどういふことかといふと、死に行くものの念が、多分、星が死に行くときに超新星爆発するやうに激烈な爆発を起こし、念が光速を超えて膨脹しては私の五蘊場が川に立つ杭の如くに作用して、その膨脹し行く念が私の五蘊場でカルマン渦を巻き、死に行くものの心残りの夢などが鮮烈に見えるのだ。それは不思議な出来事で、私はそれを念のRelayと呼んでゐるが、さうしたことが世界各地で起きてゐるに違ひないとも思へるが、しかし、私はその死に行くものの念に指名されたのも確かに違ひない。さうして念はRelayされ、未来永劫に亙って存続する。さう考へずば、説明がつかないことが私の身に起きてゐる。そして、これは私の死が近い徴なのだらう。死んだものたちの念が想起されて仕方ないのだ。死んだものたちは生き生きとしてゐて、此の世の春を愉しんでゐる。それを思ひ出といふには余りにも肉感的なのである。生生しいのだ。夢幻が逆転し幻の方が肉界ではないかと思へるほどに肉感的で余りにも生生しいのである。それも念のRelayの為せる業なのだらう。私の肉体が念の通り道になってゐるとしか思へぬのだ。この不思議は死に行くものや死んだものたちが私に念をRelayし、肉界での念の夢中遊行の実現をさせてゐるに違ひないのだ。イタコではないが霊が降りてくるやうに念が私を突き動かすのである。


今度は闇尾超特有の実念論か。念が存在に先立つとは之如何。イタコのやうに霊が降りてくるが如く念が闇尾超の五蘊場でカルマン渦を巻くとは、一体、闇尾超の身に何が起きてゐたのだらうか。当然、闇尾超自身の念も闇尾超の五蘊場でカルマン渦を巻いてゐた筈である。だから、死に行くものの、そして死んだものたちの念が肉界のやうに肉感的で生生しかったのだらう。死が星の最期の超新星爆発の如く光速を超えた激烈な爆発を伴った膨脹だと。それが闇尾超の五蘊場でカルマン渦を巻いて、死に行くものの名残惜しい夢などが生生しく鮮烈に見えるといふこととは、之如何。闇尾超はある種の神秘主義に辿り着いてしまったのだらうか。仮にさうだとして、念のRelayか。憤怒のRelayと私は闇尾超に見てゐたが、それは間違ひのやうだ。精神のRelayとは埴谷雄高の言だが、闇尾超が敢へて念といふからには、確かに闇尾超の五蘊場は念の夢中遊行の場と化してゐたのだらう。念と念が出遭ふとき、既にお互ひの勝手を知ってゐて、一瞥する前にお互ひのことが心の髄まで解る不思議な体験に遭遇してゐたに違ひない。生生しい念たちの交感。その輪の中心に闇尾超の念がゐた筈である。それはさぞかし愉しかったのだらう。闇尾超をして念が存在に先立つと言はしめたことは、デカルトに反旗を翻しCogito, sic Im ‘sollicitus. Et superabit.との思考に到達した闇尾超のこと、思考が吾を超えるやうに闇尾超の念も闇尾超を超えてしまったに違ひない。その奇異な体験が死期迫った闇尾超の身に起きたといふことは、闇尾超にとって強烈な体験だったのだ。それが余りにも生生しかったので、闇尾超はCogito, sic Im ‘sollicitus. Et superabit.の正しさを噛み締めてゐたのかもしれぬ。これが闇尾超がデカルトを凌駕した瞬間だったのかもしれぬ。死を前にして漸くデカルトの呪縛から解放された闇尾超は、さぞかし嬉しかったに違ひない。
――祝杯だ。酔ひ潰れるまで飲まう。
と、闇尾超に念のRelayを託した念どもと闇尾超は最期の晩餐を自覚して飲み明かしたのだらうか。勝手知ったる念どもとともに心行くまで闇尾超は死が迫った残り少ない日日を愉しんだのかもしれぬ。


十四、闇の世界を握り潰せし


――詩を書いた。


「闇の世界を握り潰せし」


私は其処に何かの兆しがないかと眼前の闇を只管に凝視す。
――何(なに)故(ゆゑ)か、吾なるものが憤怒の燃え盛る炎と化し、全身には蝋燭の炎が最期の瞬間に一際輝くのに似て力が滾(たぎ)るのは。
さうして吾は内部の囁きに唆されるやうに眼前の闇の世界を無性に握り潰したき。
――闇の世界? 其は何ものぞ。ちぇっ、そんなものは犬にでも呉れちまえ。
吾ながら珍しくをかしかったので、
思はず苦笑するも、忌忌しき闇の世界はまんじりともせず黙して語らず。
――嗚呼、かうして吾なるものは滅び行くのか! 吾は愈愈(いよいよ)最期の時を迎えしか!
さう私は独り言ちてはむんずとか細い手を力なく伸ばしては内部に滾る力を一心に手に込めて闇の世界を握り潰せし。
すると、闇の世界は静寂を邪魔せしものの出現で憤怒の声を上げし。
――何するものぞ! 世界と呼ばれしこの吾をだ、握り潰して変へやうとする不遜な輩は! 吾が貴様に変えられやう筈もない! ぶはっはっはっ。
だが、ふと漏らしたその哄笑で世界は存在を始めし。
さう、存在しちまったのだ。
闇の世界は虚しく響く哄笑を発せし為に
図らずも意に反して存在を始めし。
その刹那、闇の世界は呻き。
――しまった!


このやうにして
世界は始まりし。
だが、宇宙は未だ微睡みの中。
待つのは巨大な巨大な巨大な鉄槌を振り下ろせし神の一撃のみ。
さうして宇宙は始まりし筈が、
当の宇宙は生まれたがらずあり。
而して神の一撃は振り下ろされたし。
さうして宇宙、開闢す。


けれども、闇の世界は私とともに再び業の中に埋没す。


積 緋露雪

物書き。

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