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小説 祇園精舎の鐘の声 二十一の篇

つまり、「楽」が生んだ最たるものが生者を彼の世へ簡単に送れる武器の数数である。更に悲惨なことに現代では死に行くものは誰が己を殺したのか解らないことであった。これでは死んだものは浮かばれる筈もなく、また、殺戮する方もGame感覚で生身の人間を殺すのだ。埴谷雄高の言ではないが、
――あいつは敵だ! 敵は殺せ!
といふことが現代では益益先鋭化し、敵といふレッテルを一度貼られてしまふと最早手遅れで、自律型のAIを搭載した無人機で殺されるのである。これは逃げやうがなく、かうして殺されたものたちは決して浮かばれぬ。浮かばれる筈はないのだ。霊といふものが仮に存在するとすれば、自律型AI搭載無人機で殺されたものたちは己を殺したものを未来永劫に亙って探すために此の世を彷徨ひ続け、結局は己を殺した人間の敵は見つからず、此の世は無念の怨嗟による瞋恚の死者の霊で満ち満ちてをり、成仏できずに彷徨ふことを宿命付けられてゐる。つまり、浄土へも地獄へも行けずにこの地上を中有を過ぎても彷徨ふことで、彼の世への出立は一向に始まらぬのである。当然、輪廻転生などある筈もなく、この生者と死者の分断は敵として死んだ死者の誰をも跨ぎやうがないのである。Televisionで心霊番組がめっきり減ったのは、最早霊が笑い事では済まぬものになり、うようよとこの地上を彷徨ってゐる霊たちがいつ何時生者へ死者たちの一揆が起こるか解らずに生者はそこはかとない疚しさでビクついてゐるのが本人はそれとは気が付かぬとも生者の存在は存在するだけで脅かしてゐる此の世のアプリオリな恐怖なのである。これはアポリアでもあって高度情報化科学技術文明が招き寄せた現代を生きる人間の宿痾であり、普通に日常を生きてゐるのでは大抵の生者は精神的に参ってしまひ、残さされた道は自殺以外ないのである。この見えない恐怖は生きている以上誰の身にも降りかかるものであり、生者は生まれ出た刹那、浮かばれずにこの地上を彷徨ってゐる死者の呪ひに呪はれてゐて、生者はこの呪ひからどう足掻いても逃れられぬ十字架を背負って此の世に生を享けるのである。「楽」を追い求めた結果、死者の呪ひはある特定の人で完結することがなく、言はれなき呪ひに生者の誰もが呪はれてゐる。これが高度情報化科学技術文明の行き着いた狎れの果てなのである。敵の顔が解らぬ死者にとっては生者であるだけで最早「敵」でしかなく、死者の怨嗟を晴らすには生者であれば、殺す相手は誰でも良く、ここでも、
――あいつは敵だ! 敵は殺せ!
の箴言は更に先鋭化して息づいてゐて何時の頃からか生者と死者は反目する「敵」となって対峙することになったのである。Horror映画ではないが、Zombie対生者の果てしない戦ひがこれからは続くことになったのである。だから、現代では死がTabooとなり、然し乍ら、死者は生れてくる新生児以上に増えてゆくといふ人類全体がこれからは老ひてゆく未来を迎えることに相成ったのである。だから、現代では宗教は先鋭化するか退化するかの道を辿り、先鋭化した宗教はまた、
――あいつは敵だ! 敵は殺せ!
を信条とするやうになってしまったのである。


二十一の篇終わり
積 緋露雪

物書き。

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